時代考証が解く 定子の立后、詮子を女院に…道隆の政権強化策とは?
---------- 2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。 ---------- 【写真】貧乏学者の娘・紫式部と右大臣家の御曹司・藤原道長の本当の関係
定子入内と兼家の焦り
大河ドラマ「光る君へ」13話では、十一歳という史上最年少で元服した一条天皇に、兼家(かねいえ)の孫・道隆(みちたか)の一女で十五歳の定子(ていし)が入内した。正暦元年(九九〇)正月のことである。一条の方は身体が大人になっておらず、定子を懐妊させる「可能性」はなかったはずである。自身の寿命を危惧した兼家の焦りの表われと言えよう。 ただ、これまで大人の中だけで育ってきた一条にとって、定子ははじめて現われた近い年輩の者だったであろうし、詮子(せんし)や女官たちを除くと、はじめて接した女性となったはずである。これがこの後の一条の人生に大きく影響したことは言うまでもない。 その詮子であるが、一条と常に行動をともにし、外出時も「同輿(どうよ)」していたことは史料から確実であるが、円融院の存生中は政治的には目立った動きは見せていない。逆に円融院は、一条の蔵人頭とした実資を通して、人事など様々な政治的要求を摂政の兼家にねじ込んでいる(倉本一宏『一条天皇』)。 道長政権の成立に詮子が大きな影響力を発揮したことは確かであろうが、これが円融院の存生中であったらどうなっていたか、様々想像してしまう。なお、円融院が死去したのは、翌正暦二年のことである。
定子を中宮にした道隆
正暦元年五月八日、末期を迎えた兼家は落飾入道し、代わって内大臣道隆が関白となったが、二十六日に到り、詔して道隆の関白を改め、再び摂政としている。すでに元服を終えたもののあまりに年少で元服した一条は、万機を総攬できなかったのであろう、一条が十四歳に達した正暦四年に、道隆は関白に改められている。 なお、兼家はこの年の七月に薨去している。六十二歳。わずか四年間の政権であった。 外祖父の兼家とは異なり、天皇の外舅(がいきゅう)に過ぎなかった道隆にとって、その権力基盤を固めるためには、定子を立后させる必要があった。当時はまだ円融中宮の遵子(じゅんし、頼忠〈よりただ〉女)がいた。十月五日、道隆はこれを皇后とし、定子を中宮とした。 中宮というのは律令制で皇后・皇太后・太皇太后それぞれを指す場合と、三后の総称である場合があった。この三后の事務を掌る官司が中宮職と称されたので、このようなこととなったのである。しかも、藤原光明子(こうみょうし)が自分の事務を掌る官司を作ってこれを皇后宮職と称したため、よけいに複雑になってしまった。ただし、遵子は円融の皇后、定子は一条の中宮であって、あくまで別の天皇の后であった。この詐術によって、後に定子は酷い目に遭う。