「カーターピーナッツ」「カーター記念マラソン」…日本各地にも名を残した元アメリカ大統領
2002年にノーベル平和賞を受賞し、29日に100歳で死去した元米大統領のジミー・カーター氏は、大統領経験者として初めて被爆地・広島を訪れるなど、日本との縁も深かった。被爆者団体や国内のゆかりの人々から悼む声が聞かれた。 【写真】東京サミットの全日程を終えて合同記者会見したカーター大統領(1979年6月)
1977~81年に大統領を務めたカーター氏が、広島平和記念資料館を見学したのは84年5月のことだった。<この記念館は、すべての人々が平和とより良い理解に向けて努力することを、絶えることなく永遠に思い起こさせるものでなければならない>。カーター氏は同館の芳名録に、そんなメッセージを残した。
「紛争地を巡って調停に取り組むなど、平和に大いに貢献された」。今年のノーベル平和賞を受賞した被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」の代表委員・箕牧(みまき)智之さん(82)はそう惜しむとともに、「世界情勢はますます悪化し、分断されている。トランプ次期大統領にもカーター氏のように広島を訪れてもらい、世界が平和に向かうようリードしてほしい」と願った。
富山とも縁
同じ84年には、富山県黒部市で開かれたジョギング大会に飛び入り参加した。以来、同市ではマラソン大会「カーター記念 黒部名水マラソン」が毎年開催されている。
堀内康男・元市長(70)は、2015年に米国でカーター氏と会い、大会参加者へのビデオメッセージをもらった。「物静かな老紳士という印象だったが、カメラが回った途端に表情が引き締まり、力強い言葉を発するなど、元大統領の神髄を見た。黒部を懐かしむ姿が印象的で、気遣いにもたけた方だった」。堀内さんは当時をそう振り返った。
カーター氏は、1990年には広島県甲奴(こうぬ)町(現・三次(みよし)市)を訪れた。交流を重ねる中で、自らの農園で栽培していたピーナツを町に提供し、やがて町でも栽培されるように。今では「カーターピーナッツ」という名の特産品になっている。
三次市の生涯学習施設「ジミー・カーターシビックセンター」では、31日から来年1月5日まで記帳所を設ける。福岡誠志市長は「交流の架け橋となって、平和と相互理解に尽力されたこれまでの歩みに、心から敬意と感謝を申し上げる」とコメントした。