BODEの詩的な懐かしさが生まれるまで──エミリー・アダムス・ボーディ・アウジュラの物語
ニューヨーク、チャイナタウンの一角にある部屋。窓にかかったアンティークのレースカーテンからは、初夏の陽射しが差し込んでいる。エミリー・アダムス・ボーディ・アウジュラは、ベルベットのクッションを置いたソファに腰掛けていた。ここは、彼女とインテリアデザイナーの夫アーロン・アウジュラが最近まで住んでいたアパートメントだ。 【写真つきの記事を読む】アメリカの次世代を担うブランド、ボーディのルックをチェック! 広々としたロフトアパートメントは今、ボーディ(BODE)のスーツやその他のカスタムメイド服のオーダーを受けるテーラリングスタジオに生まれ変わった。すぐ近所にはボーディの旗艦店やエミリーとアーロンが共同経営するバー「The River」、また、ロサンゼルスには278平方メートルを占める2号店、加えて複数の実店舗が世界各地に計画されている。それぞれの店舗に在庫しているのは、絶え間ない進化を続けるボーディのレディ・トゥ・ウェアのコレクションで、これらはエミリーの家族史に導かれた、物質文化への研ぎ澄まされた探究の成果である。その横には、定評のあるボーディの一点ものアイテムたちが掲げられている。フレンチリネンを手作業で繕ったシャツや、ミッドセンチュリーのチェック柄ブランケットから仕立てたコートが、過ぎ去りし時代に豊かな実りを見せた工芸の痕跡を露わにしている。 エミリーとアーロンはこの部屋で5年近くを過ごした後、閑静なウェストヴィレッジの一角に移り住むことにした。建物に備わる手動エレベーターが、生まれてくる子どもとの暮らしには使い勝手が悪く感じられてきたためだった。しかし、新居の改装はまだ済んでいない。アーロンがインドの工場に出張に出かけているあいだ、エミリーはホテル暮らしをしている。「ここで寝起きできたらいいのですが」と、自身の昔のアパートについてエミリーは言った。「今でも我が家のように感じられますから」 そのように感じられたのは、部屋のデザインが理由だった。ボーディの世界観を形作るあらゆるものと同じように。 素晴らしい雰囲気を漂わせるベイマツ材を使用した空間は、これまでインテリア雑誌が好んで取り上げてきたものだ。手がけたのは、アーロンとベンジャミン・ブルームスタインによるデザイン事務所「Green River Project」だ。寝室が更衣室に改装されたり、本があった場所に何点もの布地が収められたりしても、元々あった暖かみと個性は今もそこに残っている。スタッフが小さなこんろの上でコーヒーポットの番をしている傍ら、隅では日本のお香が焚かれていた。私の前に置かれたテーブルの上には、「アメリカンスピリット」の吸い殻でいっぱいになったチーク製の灰皿があった。奇妙なほど写真映えする夫妻の飼い犬、ドイツ産ワイアーヘアード・ポインティング・グリフォンのマンデーはそこにいなかったが、彼が部屋の隅っこで静かに居眠りしている姿は容易に想像できた。 このスタジオは厳密にはまだオープンしていないが、まもなく到着するひとりのクライアントの予約が入っていた。写真家タイラー・ミッチェルが、メットガラに着ていくタキシードを仕立てに来店する予定だったのだ。まだここがアパートだったときから、エミリーとアーロンは、常連客のミッチェルやロードのようなセレブリティのために、フィッティングをリビングで行っていた。「アーロンも私も、それぞれクライアントをここに連れてきました。何より大事なのはくつろいだ雰囲気ですからね」と、エミリーは言った。ボーディ“ファンクラブ”のコアメンバーであるミッチェルは、ボーディのセーターと素朴な真鍮のチャームを施したジップアップジャケットを身に着けて現れた。 その「くつろいだ雰囲気」の大部分は、公私ともにパートナーであるエミリーとアーロンが確固たる美意識の持ち主であるという事実によって生み出されている。それは、人によっては一生をかけてようやく確立するだけのテイストであり、ブランドのカラーを決定づけてきたものでもある。 「まず大事なのはブランドの世界観を構築すること。そして、プロダクトをそこに落とし込んでいくように作ることです」と、エミリーは言う。私が初めてエミリーに会ったのは2018年、まだボーディの本部がロウアー・イーストサイドにある彼女のワンベッドルームアパートにあったときのことだ。彼女はそこを拠点に、古いキルトから仕立てた一点もののジャケットや、厚手の上掛けを使ったオーバーシャツを販売していた。創業から2年も経っていないにもかかわらず、ボーディはすでに長い歴史があるように感じられた。シンプルなボクシーシルエットに仕立てられた服の数々は丈夫かつ高級感を感じさせ、ほかに類を見ないものだった。しかし、それ以上に印象に残ったのが、そのときエミリーが語った言葉である。彼女は、まだ小さいながらも発展しつつあった自身のコレクションを通して、アメリカの伝統を守るための役に立ちたいと話していた。 ■ラルフ・ローレンに憧れて ここまでの志を、単に富や影響力を得ることよりも優先させていた新人デザイナーが、当時ほかにいただろうか。少なくとも私は会ったことがない。それ以来、エミリーとアーロンのふたりと親しくしてきた私は、結果として彼らのビジネスでの成長と、ファッションを始めとする多方面での活躍を最前線で眺めてきた。今ではほぼ毎日、ボーディの服を一着は身に着けている自分がいる。 当然のことながら、エミリーは歴史を熱心に勉強している。彼女の魅力的なビジョンは、先人たるアメリカの偉大なファッションデザイナーの系譜に連なっている。その最たる例が彼女のインスピレーションであるラルフ・ローレンだ。映画を愛する彼は、ディテール豊かに演出された空想のライフスタイルに自身の服を文脈付けるパイオニアとなった。ローレンについて、エミリーは次のように話した。「服飾文化の全てを内包する彼のビジョンは私の憧れです。私がやりたいことも、ずっとそうでしたから」 1970年、ラルフ・ローレンはニューヨークの百貨店ブルーミングデールズで、自身のコレクションを一カ所に集め、販売を始めた。それまでは、小売店がひとりのデザイナーの商品を一つの場所にまとめて販売するのは珍しいことだった。現在では、あらゆるファッションブランドが自社の服を取り巻く世界観を緻密に構築する必要性を感じている。自社が手がけるホワイトのボタンダウンシャツは他社のものより魅力的であると、文脈的なマーケティング戦略でカスタマーを惹きつける必要があるからだ。 これをもう一歩先に進めたのがエミリーとアーロンである。1986年、ラルフ・ローレンはマンハッタンのアッパー・イーストサイドにある、いわゆる“金ぴか時代”に建てられた巨大な建物に旗艦店をオープンした。田園地方の大邸宅を思わせる、暖かみのある上流階級のインテリアは、統一された美学で貫かれた小売店として人々を驚かせた。しかし、ラルフ本人もそこに住んだことはなかったのだ。 エミリーは、これまでメンズウェアで誰も見たことがなかったようなことをやろうとしている。デザイナーズブランドの服を買ったことがある誰もが、他人の創造物に身を包むことがどのように感じられるかを知っているはずだ。ボーディの服が呼び起こす感覚は、それとは少し異なる。家族の歴史と忘れられた職人仕事に彩られた彼女の世界は、ノスタルジックな記憶を呼び覚ますのだ。あまりにも具体的すぎて、大多数の人々には響かないように思えるかもしれない。しかし実際には、それは多くの人の心に響き、深い共感を呼んできた。 ラックにかかるボーディの服を一つ一つ手に取っていくときに思い出されるのは、祖父母の家の屋根裏を探索するときの好奇心や、馴染みのない街にひっそりとたたずむアンティークショップを訪れたときのような感覚である。ロマン溢れる昔の生活様式や、ベッツィー・ロス(初めて星条旗を作ったとされる女性)やジーズベンド(独自のキルト文化で知られるアラバマ州のアフリカ系コミュニティ)といったアメリカ人の琴線に触れる伝承、戦前のロウアー・イーストサイド、ニューイングランドののどかな夏の夜──そんな風景がこだまするような気持ちになるのだ。それはお堅い歴史書よりも、何世代にもわたって大切に受け継がれてきたファミリーアルバムを思わせる。 「エミリーがケープコッドをテーマに扱うとき、彼女はとても具体的でおかしな体験をモチーフにします。(一般にケープコッドから連想される)ケネディとは何の関係もなくね」。アーロンは、折に触れてそのように話してきた。インドにルーツを持つ彼の存在もまた、エミリーの指向するアメリカ観にグローバルな影響を持ち込んでいる。 「初めてボーディに足を踏み入れたときは、まるで夢の中に迷い込んだようでした」。37歳の弁護士コナー・サリヴァンは、ブランドのニューヨーク店を訪れたときのことについて、私にそう話す。その体験に心を奪われたサリヴァンは昨秋、自身の結婚に向けたリハーサルディナーのために、ボーディのディナースーツをオーダーメイドした。「彼女の服全てに通底した鮮やかで力強いビジョンに、私はすぐに圧倒され、魅了されました。ポルトガル語に、存在しないものに対して感じるノスタルジアを表す言葉があります。私がボーディの服に感じるのはそれなのです。まるで、自分でも知らずに憧れていた過去の世界の一部であるかのように」 ■独自のリズムで築いたオリジナリティ エミリーがブランドを起ち上げたのは2016年のことだったが、アイデアだけは彼女の中に長いあいだ様々な形で存在していた。「ボーディを始めたのがいつかを特定するのは難しいです」と、彼女は話す。ユージーン・ラング・カレッジで哲学を学ぶ傍ら、パーソンズ美術学校でファッションデザインを専攻していたとき、彼女の目標はアバクロンビー&フィッチでデザインの仕事に就くことだった。生涯の夢はラルフ ローレンに就職することであり、場合によっては自分の店がオープンできたらとしか思っていなかった。エミリーの変わらぬ信念は、服はあくまで人に着られ、大事にされるものであるべきというものだ。大学では同級生がマネキンにファブリックを被せながら試行錯誤するなか、彼女は自分や友人がパーティーに着ていくための服を徹夜で縫い上げていた。 「ボーディがまだアイデアの段階にすらなかった頃から、彼女が自分の創作に強い思いを抱いていることは明らかでした」。エミリーの友人でかつてのルームメイトである、アーティスト兼ミュージシャンのカート・ビアーズは話した。「たとえ失敗がわかっていても、彼女はまったく問題にしませんでした。彼女は“とにかくやる人”でしたから」 パーソンズで、エミリーは一際目立つ存在だった。それ以来、彼女はいつでも独自のリズムで生きてきたが、型にはまらないさまはチャーミングですらある。ダークブラウンの長髪の持ち主である彼女は、60年代のコーデュロイパンツとヴィンテージのシャネルを身に着けている。テーラリングスタジオにある、白いラナンキュラスが挿さった20世紀初頭のストーンウェアの水差しから、長年にわたって収集してきた博物館級の膨大なキルトコレクションに至るまで、彼女が行く先々でアンティーク工芸品の山が築かれる傾向がある。 大学で夏らしいパンツやニットタンクトップからなる卒業コレクションを制作したエミリーは、同級生たちのアヴァンギャルドなデザインを前にパニックに陥った。教授が彼女をなだめたときはすでに、友人たちもエミリーに服を買ったりして彼女を慰めていた。ほかの誰とも「異なる思考パターンにあった」と、彼女はそのときのことを振り返る。エミリーは技術面、芸術面で同級生たちに後れを取っているのではと不安になったのだ。しかし教授は、彼女のコレクションに将来の成功を予感していた。「彼は私に言いました。『君のビジネスがおそらく最も成功するだろう』と」 2013年にパーソンズを卒業した彼女は、翌年に哲学の学位も取得した。その後すぐに、アバクロンビーから仕事のオファーが舞い込み、ラルフ ローレンでも面接の機会を得た。「どちらも私が進むべき道とは違う気がしました」と、彼女は振り返る。「私は自分のブランドを始めたかったのです」 2012年、アーロンはアーティストとして活動しながら、画家のネイト・ロウマンの元でアシスタントをしていた。その夏、彼はKarmaギャラリーで「Summer」という展覧会を共同企画した。その後アーロンとエミリーが得意とするようになる、われわれをどこか別の場所へと連れ去るようなショッピング体験はここから始まった。これは、ニューイングランドの海沿いのショップをウェストヴィレッジど真ん中に一から再現するという試みだった。アーロンの依頼を受けたエミリーは、アンティークの旗やテント用キャンバス、冬用靴下を使った素朴なサッチェルバッグを製作した。展覧会について彼女は次のように振り返る。「私たちふたりには共通のテーマがありました。家庭的であること、ニューイングランド、そして手芸です」。バッグのレザータグには「Bode for Summer」と書かれていた。 エミリーにとって、自身の幼少期はいい思い出でいっぱいだ。アトランタ育ちの彼女だが、両親がマサチューセッツ州の出身だったため、家族休暇はケープコッドで過ごした。父親は医者で、母親は画家であり主婦でもある。ボーディ家にとって祝日は大切なイベントだ。7月4日には、彼女の祖父が凝った宝探しを企画した。ハロウィーンとバレンタインデーの家族行事は毎年、長時間に及ぶ工作から始まる。 エミリーがマーク・ジェイコブスでインターンをしていた学生時代、彼女は職場の全員にまで自作のバレンタインカードを配った。「上司は皆、変なことをするねなんて言ってました」と、彼女はそのときのことを振り返る。彼女の収集癖とアンティーク趣味は、母親のジャネットと大おばであるライス姉妹(古い写真で見る彼女たちはお互いに、そして今のエミリーにそっくりだ)からの影響で、幼いうちに始まったという。ボーディ家で語り草になっている逸話がある。エミリーは自分で使う子ども用のハイチェアを自ら選んだというのだ。それは19世紀に作られた細長い木製のデザインで、今でも彼女のデザインスタジオに置いてある。そのとき、彼女は4歳だった。 キャナル・ストリートのテーラリングスタジオでは、細く立ち上るお香の煙が部屋をゆっくりと満たしていた。「昔から、ヴィンテージの服や家族の持ち物に本質的な価値を感じてきました」と、エミリーは話した。そういった品々が物語るストーリーを聴き取る、ほぼ超能力と言ってもいいような何かを彼女は備えている。貴重な織物から、親戚の引き出しの奥に忘れられた小さな品まで。「人の服装や信条、家の建て方、いかに心を養ってきたか──そういった一人ひとりの個性に、何か惹かれるものを感じてきました。とても特別なものですから」 2016年にボーディが公式に創業すると、ブランドは瞬く間にファンを獲得した。それでも、メンズウェアの主流が彼女に追いつくにはやや時間がかかった。エミリーの極めてパーソナルなデザインアプローチはあまりに斬新だったため、業界の中には戸惑いを隠せない者も多くいた。「私が話した人たちは誰も、私がやりたいことを理解できませんでした」と、エミリーは話す。彼女のデザインは、当時売れていたラグジュアリー・ストリートウェアのトレンドにも反していた。エミリーによると、ある大手メンズウェアショップとの営業ミーティングで、先方は今やクラシックとなったボーディのオーバーシャツを「ちょっと厚手でボクシー過ぎる」と称して辞退したという。 当時ボーディが販売していたアイテムは、ほぼ全てがヴィンテージの生地を使ったものだった。エミリーのビジネスがそれ以上発展できるか、批評家たちが疑問視していたのはそのためである。何を隠そう、私もその一人だった。2018年、ロウアー・イーストサイドにあった彼女のアパートのキッチンで、私は彼女にその点について尋ねた。そのとき彼女は、珍しいアンティークの反物に依存しなくてもすむよう、すでに自身のテキスタイルを製作しているところだと説明した。このことが彼女に新しいデザインの可能性を切り拓いた。貴重なアンティークの生地をより優れた職人技術で再現し、それらを彼女ならではの手さばきで新しいデザインに用いながらも、生産数を小さく抑えることで、オリジナルのアイテムに通ずる価値や希少性を維持することができた。現在、これらのレプリカはボーディのビジネスの礎となっている。 ■アメリカを代表するデザイナーへ 2023年現在、ボーディはクラシックなアメリカンファッションの新時代における主導的な立場にある。ニューヨークやロサンゼルスにしばらく滞在すればわかることだが、エミリーの影響は明らかだ。彼女はアンティークの生地から服を作った最初のデザイナーではないが、男性が上品なキルティングやレザースリッパに身を包んでいることも数年前にはなかったことだった。誰もがうらやむセンスに彩られたボーディの世界を体現する、ほとんどドレスのようなフレンチレースのシャツはたまらなく魅力的だ(ボーディの描く男性像は、パリッとした白いシーツとフローラル柄のピローで寝ているという)。ハリー・スタイルズやケンドリック・ラマー、エマ・コリン、ドナルド・グローバー、クリス・パイン、そしてジェイ・Zらのセレブリティも、ボーディのソフトで洗練されたデザインを取り入れてきた。 「何と言っても、私がやりたかったのは人々の装い方を変えることでした」と、彼女は言う。それは、彼女にとっては単にスタイルに関することに留まらない。彼女の考えは、必ずしも世界の人々にキルトを着せることではなく、彼らに数世代前まで遡れる服を着てもらうことだった。「私の目標は、人々が自分の服を補修したり、お直ししたり、あるいは作ったりすることで、大事に楽しんでもらうようにすることでした」。人が購入する服は全て家族代々受け継がれる素質を秘めたものだという考えは、考えてみれば、ファッションに対するアプローチとしてとても現代的に思える。 エミリーのユニークなビジョンは、業界全体にファンを増やし続けている。「アメリカは次世代のデザイナーを必要としています」。ファッションデザイナーでCFDA(アメリカ・ファッション・デザイナー協議会)会長のトム・ブラウンは、私にそう話した。「私が業界にいた過去20年以上のあいだ、残念なことに多くの才能ある人々が現れては消えていきました」。ブラウンによると、この変動の時代に頭角を現してきているのがエミリーだという。「エミリーは、今後成功を収めるごく数人のうちの一人だと思います。とても才能があり、創造性豊かで自信があるだけでなく、非常に賢く意欲的ですからね。彼女にはそれだけの資質が備わっています」 エミリーは、誰もが自身のような感覚でものを見ているわけではないと自覚している。自らがセンチメンタルな感情を注ぐキルトや装飾品、服を、どうして彼女がこうも大量に蓄えてきたのか。それには理由がある。それらの品々をもともと持っていた人々、あるいは受け継いだ人々が、あるとき無情にもそれらを棄てたということを彼女は知っているからだ。かつて私との会話のなかで、自らを「きちんとした収集家」と表現したエミリーは、それらは全て彼女の世界観を構成する調度品だと考えている。彼女の世界に足を踏み入れた人は、そこから何かを持ち帰りたいと思うはずだ。「彼女はものをシェアするために収集しています」と、ビアーズは言う。「エミリーは、所有や管理が目的の収集家ではありません。その逆です。彼女にとってボーディというブランドは、自分のコレクションを最も肩肘張らない方法でシェアする場なのだと思います。実際に人に着てもらうことでね」 ■美的感覚と緻密なビジネス手腕 昨年12月、私はブルックリンにあるボーディの広大な倉庫オフィスに立ち寄った。1300平方メートルほどの空間に、100名以上いるブランドの従業員の大半が働いている。テーラーたちの部屋には2000枚ほどのキルトがあり、中には1840年代にまで遡るものもあった。そのほとんどが折り畳まれた状態で、作業机を囲む棚の上に高々と積まれていた。エミリーは他にも数百のラグ、スーツ用ヴィンテージウール2500巻以上、1920年代の刺繍入りフレンチリネン800点、ミッドセンチュリーのテーブルクロス1200点、そしてアンティークのアメリカ製パールボタンを100万個以上在庫していた。まるで映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』に登場する倉庫と、巨大な蚤の市が融合したみたいだった。 最近、ボーディはメトロポリタン美術館のアーキビストを雇い入れた。大規模かつ、ますます重要になってきた自社コレクションの目録作成を指導してもらうためである。しかし、このときばかりは仕分けも一休み中だった。ブランド史上最大の冒険である、パリ・ファッションウィークでの2023年秋冬ショーまで残り1カ月ほどしかなかったからだ。ボーディは過去に2回パリでコレクションを披露したことがあったが、最後のショーからはすでに3年が経過していたうえ、エミリーが待望のカムバックに企画した今回のような規模では経験がなかった。 つい最近、彼女はトム・ブラウンを始めとした輝かしいライバルたちを抑え、CFDAのアメリカン・メンズウェアデザイナー・オブ・ザ・イヤー賞を2年連続で受賞した。実店舗でもビジネスが好調を見せるなか、彼女は最近ある弁護士から“bode.com”のドメインを取得した。エミリーによると、彼はブランドの成功を初期から見守っていた人物らしいという。彼はラルフ・ローレンの兄弟の幼なじみで、自身の引退に伴い彼女に連絡を取ってきた。友人からファッションブランドを起ち上げる困難さを伝え聞いていた彼は、エミリーにドメイン名を使ってほしいと考えたのだ。 エミリーとアーロンにとって、こういった力添えは願ってもないことだった。パリでの成功という目の前の目標は、ボーディをアメリカのメンズウェアブランドとして確立するうえで、最も挑戦的な課題だったからだ。パリは国際的なファッションの都にもかかわらず、ここでショーを開催するアメリカのメンズウェアブランドは現在ほとんど存在しない。フランスのエスタブリッシュメントはアメリカのデザイナーに対して高慢な態度を取りがちで、アメリカのブランドの多くは豊富な資金を誇るヨーロッパの名門高級ブランドを前に独自性を確立できないでいるためだ。1月、エミリーは公式メンズショーのスケジュールに名を連ねた数少ないアメリカの若手デザイナーの一人となった。 ブルックリンでは、すでに困難が目に見える形で現れていた。パンデミックの発生前に開催されたパリでの最後のショー以来、ボーディのコレクションはより野心的かつ大規模になっていたためだ。何人かの社員たちは、インドやポルトガルへ飛び立つ準備をしていた。完成した服を現地の工場で受け取り手持ちでパリに運ぶのが、ショーに間に合わせるのに最も確実な方法だったのだ。そこにはペルーから戻ってきたばかりの社員もいた。それに、当然のことながら、パリでショーを開催するにはとてつもないコストがかかる。「パリの予算でとてもいい会場をブッキングした。でもヘアメイクに関しては、スポンサーシップの問題がある」。オフィスに入ってきたアーロンは、エミリーにそう言った。「そう、スポンサーは何が必要だと?」と、彼女は彼に尋ねた。「インスタグラムの投稿」と彼は答えた。「これは大変だ」 ランウェイのプロトタイプが少しずつ到着し始め、エミリーとアーロンは、スタジオで1970年代初頭を舞台にしたプロモーション動画の制作に着手した。小型トラックの荷台に何人かのモデルを載せて撮られた短い動画は、ショーの告知としてインスタグラムで公開される。近くには、長いダークブラウンの髪のせいでエミリーと間違われることもあるアシスタントが立っていて、いくつかのラックからブランドのサンプルを試着していた。「正直、シンプルにヴィンテージの服を着せたらいいと思う」。動画に出演するモデルについて、アーロンはそう言った。「幸いなことに、ヴィンテージに見える服を作ってるから」とエミリーは皮肉っぽく答え、ボーディのスエードジャケットを手に取った。 アーロンは、その中から“ファッション的”すぎると感じた服を取り除いていった。出来上がった動画は15秒ほどだったにもかかわらず、エミリーとアーロンはこの小品に驚くほど熱心に取り組んだ。彼らのセンスは単なる美的感覚だけでなく、緻密なビジネス手腕に裏付けされたものでもあるのだ。 来たるコレクションは、エミリーの母親ジャネットの人生における、ある瞬間にインスピレーションを得たものだった。1976年の夏、ジャネットがマサチューセッツ州ウッズホールで、裕福な90歳の女性を看護していたときのことだ。その女性は一人で夕飯をとる際に、アンティークのロングドレスを着なければ気が済まなかったという。映画会社A24が、コスチュームに力を入れて制作した作品かのような風変わりな物語だ。エミリーの家族にまつわる逸話は、どれも映画的な趣を感じさせる。 「ショーだって同じです」と、アーロンは言う。「エミリーの母親が生きたその瞬間を、忠実に伝えなければならない。ただそれだけです。『私たちの売り物を見てくれ』なんて態度になってしまっては──」。そう言いながら、彼はセーターをもう一着、不採用の山に置いた。「基本的に、人々はとても賢いですから──。インテリアでも同じです。どこかの部屋にお邪魔したとき、その内装を見て『ああ、なるほど。デザインのトレンドや今の世の中、業界の流れから言って、たぶんこういうことだな』なんてわかった気になったって、実際には迷子になっているだけなんですよ」 ■“ボーディらしい”結婚式 店舗に生まれ変わったアパート同様、ブランドを現実の世界で形にするべく奮闘するエミリーとアーロンの流儀は異色かつ野心的だ。「私たちのテーマは、どれだけオーセンティックたり得るか? ということです」とアーロンは話した。「そこの線引きが最も怖く感じます」。ファッションブランドはよく、コレクションを披露するためにモデルを集めたカクテルパーティーを催すものだが、それをより親しみやすくしたのがエミリーとアーロンだ。ボーディの2022年プレフォールコレクションは2021年秋、ふたりの実際の結婚式で発表され、私もそこに出席した。カクテルパーティーというのは、しばしば居心地悪く感じられるものだ。シャンパンに辿り着くのに、まるで生きたマネキンのあいだをすり抜けなければならないかのように。しかし、コネチカット州の田園地方にあるふたりの家で挙げられた結婚式で感じた“ボーディらしさ”は、ただただその壮麗さを高めるのみだった。 追ってインドのパンジャーブ地方で催された2度目のセレモニーでは、結婚式のゲストたちは細やかなインドの金刺繍が施されたボーディの服を身に着けていた。エミリーのルーツである米南部およびニューイングランドの伝統に則り、アーロンのホワイトタキシードはシアサッカーでできていた。式の司会を務めた劇作家ジェレミー・O・ハリスが着ていた燕尾服は、エミリーの祖父がイェール大学を卒業したときに着たスーツに着想を得たものだった。 「ウェディングコレクションは、『本当に結婚式を挙げたらどうだろう』なんて思いつきで言ったところから始まりました」と、アーロンは話す。「商品のマーケティングに自分の結婚式を利用するのか、という批判もあるかもしれません。しかし、新しいコレクションだけのために大規模な宣伝を一から考え出すより、むしろこのほうが望ましいのではと考えます」。撮影禁止を条件にした2つの結婚式は、極めてエクスクルーシブなファッションショーと考えることもできたかもしれない。しかし、私たちゲストが着用していた服の多くが6カ月後には売り出されるなどということを、そこにいた誰も気に留めている様子はなかった。 ブランドの拡大に伴って、ボーディはユニークかつ意外な方向へと進化を続けてきた。2022年初頭、ブランド第2の店舗をロサンゼルスにオープンしてすぐ、エミリーとアーロン、そして後者のビジネスパートナーであるベンジャミン・ブルームスタインはニューヨークの中華街にThe Riverというラウンジを開店した。接客業への参入は誰にとってもリスキーな賭けだが、成長途上のファッションブランドであればなおさらのことだ。 それでも、The Riverはダウンタウンのアート&ファッションシーンにおけるPolo Bar(ラルフ ローレンのレストラン)に相当する場へと育っていった。毛玉のできたキルトを身に纏った、共通の美意識の持ち主たちがマティーニを傾けに集うその店は、ボーディの店舗と同様に、ダークウッドと暖色の照明で濃密に演出されている。「自宅の一室で飲んでいるような気分です。ただし、自分のアパートをもっと最高にしたような部屋でね」。弁護士でボーディの顧客でもあるコナー・サリヴァンはそう話した。 人気急騰中のブランドには付き物だが、ボーディの世界観を特徴付ける美学は業界全体にフォロワーを生み出している。大手ブランドがキルトアイテムの販売を始めたほか、小さな新進ブランドも細やかな刺繍やアルチザナルなリネンに賭けるようになった。エミリーはしかし、そんな状況にも楽観的な目を向けている。自身の内に深く根付いた感性は、究極的には誰にも模倣できないと、おそらく彼女自身が確信しているからだろう。「結局のところ、そこに誠意があるかどうか人にはわかるのです」。私たちがキャナルストリートに降りたとき、彼女は言った。「若い頃だったら煩わしく感じたかもしれませんが、今はそうでもありません。アーロンと私には明確なビジョンがあると思っています。私たちがどこへ向かっているか、次に何をするのかはっきりわかっていますから」 ■パリでケープコッドを再現 1カ月後、年末年始が過ぎ去り、パリでのショーがやってきた。ショーの前週、パリ1区にある劇場シャトレ座のステージを覆う幕の裏側で、エミリーとアーロンはボーディの世界をかつてないほど大胆かたちで構築するのにかかりっきりだった。 ショーの30分前、エミリーは楽屋を出たり入ったりしながら、繊細なブロケードで覆われた服を着たエレガントな男性モデル2人に最後の仕上げを施していた。また別の場所では、遅刻したモデルたちがヘアメイクを急がされたり、スタッフが薄暗い舞台裏の廊下を駆け巡るなど、ばたばたとした熱気を醸し出していた。エミリーはセットデザインや服に自信があったが、それでも神経質になっていることに変わりなかった。何しろ、彼らは驚くほど大予算のショーを始めようとしているところなのだ。しかもその後には、世界的な不況が予測されるさなか、世界中から集まる100以上の小売業者とのミーティングをこなさなければならない(1月と6月に開催されるパリのメンズ・ファッションウィークの後、バイヤーが注文を始める“マーケットウィーク”と呼ばれる期間がやってくる)。神経質になっているときのエミリーは静かだ。そういうときは、彼女の周りにいる誰も彼もが同じように集中しているように見える。彼女がクリーム色のリボンスカーフを目にし、それをモデルの首に優しくかけようとしたとき、数人いた周りのアシスタントたちは皆、彼女の一挙手一投足を注意深く見守った。 私は1週間のあいだずっと、複数のファッションデザイナーにコレクションのことをインタビューをしてきた。ファイン・アートの芸術家やジェンダーフルイドについて何度も耳にした。その一方、エミリーのストーリーテリングは、どうかと思うくらい具体的だった。2019年6月に発表されたパリでのデビューコレクションは、乗馬スタイルのシルクコートとパンツで溢れていた。彼女の祖先はシンシナティで馬車の製造会社を興し、1900年代初頭にはリングリング兄弟のために凝ったサーカスキャラバンを製造した。コレクションはその家族史にインスピレーションを得たものだったが、その魅力はより普遍的だった。 披露された服は家庭でのお手製にも、代々受け継がれたものにも、あるいはラグジュアリーファッションにも見えた。ボーディの世界は、そんなノスタルジア文化の中心を担っている。「私たちと同じ分野にあると言えるほかの会社は、私たちとはまた別の物語を売り込んでいます」と、エミリーは話す。「私たちの世界観は非常に具体的。家族や文化保護、手工芸、タイムレスであることがテーマです」 エミリーとアーロンは、“商業的”という言葉がモノを言うパリで、センチメンタルかつ細やかな自らの世界観を証明してやろうという確たる意志を持っていた。「音楽や照明、ドラムビートなどで豪勢なファッションショーを演出するのは簡単」だと、エミリーは私に言った。「でも、私たちのショーで重要なのは、私たちを私たちたらしめているのは何なのか、エモーショナルな観点から語ることなのです」。舞台裏でアーロンが冷えたシャンパンのボトルを見つけ出した頃、劇場はもうすぐで満員になるところだった。ゲストの多くが、ここに来たのは2021年以来だっただろう。バレンシアガが、同ブランドを題材にした『ザ・シンプソンズ』のエピソードをこの劇場で上映したときのことだ。セレブリティが大挙した上映会には、歌手のカーディ・Bやレーサーのルイス・ハミルトンが現れ、パパラッチがレッドカーペットを取り巻いた。 ボーディのオーディエンスは、それよりも画家や作家、変わり者のパリジャンなどに比重が偏っていた。注目のランウェイショーというより、オペラでも上演される夜かのように見えた。ちなみにこのときから1カ月以上が過ぎた頃、偶然とは言えまったく無関係とは言えない展開として、バレンシアガが自社広告にまつわるスキャンダルに関して声明を発表した。同社はパリでのショー・ノートで、ファッションの「本質」に立ち帰り、「身体とファブリックのあいだの関係を構築する」と述べ、影響力にモノを言わせた“ファッションテインメント”の手法からの転換を示唆した。 これはつまり、時代の風潮がボーディの作風へと流れてきたことを意味する。過去数年のあいだ、ボーディは地に足の着いたランウェイショーを取り戻そうとしてきた。ニューヨーク・ファッションウィークでの一連のショーでは、肩の力の抜けたモデルたちがGreen River Projectの家具の周りで横たわったりしていた。エミリーの友人たちが、ロックンロールのカバー曲を演奏したこともあった。ファッションショーというよりも、感じのいいたまり場といった雰囲気だ。 屋内で照明が落ちると、ひとりの人物がステージを横切りスポットライトの中に立った。エミリーのフランス生まれのおじ、フランクだ。彼はカリフォルニアからわざわざショーのために飛んできて、エミリーを驚かせた。「エミリーの人生にとって、家族はとても重要なものです」と、訛りのある英語でフランクはオーディエンスに語りかけた。エミリーのおばでジャネットの姉妹である彼の妻ナンシーは、その数カ月前に亡くなっていた。その口上は、オペラと言うよりエレジーだった。「エミリーとアーロンにはこう言ってきました。もし君たちがお互いに幸運を見つけたのなら、君たちのいずれかがいつか、私が今感じているだけの苦痛を味わうだろうと」。そう言って、フランクはスピーチを締めくくった。「相手に深く愛を注いだのだということを意味しますから」 ニューヨークで、エミリーはそう言って自身のおばについてこう語った。「彼女は私のスタイルにとても大きな影響を与えました。私がデザイナーになったのも、私が物を収集するのも……。このコレクションは、そのせいで特にエモーショナルなものになりました」。ショーへの出席はまるで、再会した一家の特別な集いに参加させてもらったみたいだった。それは一風変わった体験だが、巧妙なマーケティングと派手な見せつけに支配された1週間の中では、生き生きとリアルで美しい瞬間に感じられた。 会場で誰もが目頭を押さえるなか、幕が上がるさまはあまりにもドラマチックで、少なくとも1人の観客が二度目の涙を浮かべた。アーロンとブルームスタインは、ジャネットが1976年にウッズホールで過ごした夏の情景を穏やかに再現した。ステージには白いケープコッド風の家が建ち、数千キロ分の砂利がその周りを埋めていた。家の隣には小さな小屋があり、舞台左手の旗竿には星条旗が緩やかにはためいていた。舞台のサウンドトラックとして流れた優しいピアノ曲は、モデルたちのパンプスが砂利を踏みしめる音よりもかろうじて大きいくらいの音量で鳴っていた。 エミリーの母親へのトリビュートは、彼女の過去のコレクションと比べて、より美しく洗練の度合いを高めていた。スパンコールを施した現代的なフラッパードレスのほか、男性モデルたちがクロップドジャケットやショールカラーのコートを着て舞台の家から出てきた。ボーディのこれまでのコレクションに通底するモチーフである、フローラル刺繍や素朴なブロケード、キャンプな装飾(タキシードには、シャンパンボトルやブドウを模したスパンコール刺繍があしらわれていた)が、かつてないほど洗練された色遣いと細やかさで表現されていた。 フランスの批評家は皆、新たな進化を見せたボーディのコレクションに興奮気味だった。「シルエットに次ぐシルエットで、エミリー・ボーディの徹底的な詩情は観客を虜にした」。フィガロ紙はそう評し、エミリーを「力強く詩的な世界観を持つデザイナー」と呼んだ。現在、彼女とアーロンは次なる実店舗の候補地として、パリに目を向けている。 ショーの後、手編みのセーターを着たゲストたちは、セーヌ河畔に現れたケープコッドの景観に探りを入れた。彼らは、アーロンとブルームスタインが家の内部につくりあげた小さなのマッドルームに驚嘆した。タイルの上にはスリッパが散らばり、素朴な木製のフックにはチェックのシャツが吊られていた。その情景を、エミリーの母親がじっと見つめ立ち尽くしていた。彼女は、自身の人生にあった一瞬のひとときが50年後、ファッション最大の会場の一つで再現されたことに感嘆しているようだった。 ここに至るまでの10分間のあいだで、エミリーの私小説的な創造プロセスには限界があるのではという疑念は、きれいさっぱり消えてしまった。彼女自身の歴史、家族とアート、ファッションの融合は完全なものとなった。そして、その魅力はかつてないほどの奥深さを湛えている。この再構築された小さな思い出の中にいると、誰もがその場を去りたくないと感じているように思えた。エミリーはずっとラルフ・ローレンと仕事をしたいと思っていた。しかし彼女は、今ではボーディこそが夢を実現する場だと話す。むしろ彼女は、次のラルフ・ローレンとなる道を歩んでいるのだ。 その後しばらくして会場を離れようとしたとき、私はステージで娘にハグをしようと待ち構えているジャネットに出くわした。「あなたのジャケット、素敵ですね」と、彼女は私に言った。私はそのとき、フロントにスナップボタンが付いたケリーグリーンのパデッドジャケットを着ていた。ニューイングランドへのスキー旅行で撮影した、色褪せた写真にでも写っていそうなアイテムだった。「おかしいですね、私も昔まったく同じようなものを持っていたんですよ」。彼女はそう言ってウィンクした。それがボーディのジャケットだったのは言うまでもない。 From GQ.COM By Samuel Hine Translated and Adapted by Yuzuru Todayama PRODUCTION CREDITS: Photographs by Amy Troost Styled by Elissa Santisi Hair by Tina Outen at Streeters Makeup by Dick Page at Statement Artists Special thanks to Nine Orchard