《パラグアイ》パラグアイ唯一の和牛農場訪ねて 「カバーニャH」林英二郎さん ≪3≫ 新機軸の和牛串焼きで一気に躍進
和牛一頭を売り裁くことの難しさ
「和牛の飼育は生産コストの高さと販売の難しさとの戦いだった。レストランをやっていなかったら和牛をやめていた」という林さん。2004年には当時無名だった和牛の普及を目指し、アリシアさんの夢でもあった持ち帰り専門の日本食店『デリシアス・ハポネサス』をオープンした。 農場直送の和牛を使用した料理をメインに「Carne Paraguaya. Genetica Japonesa(日本種のパラグアイ産ビーフ)」をキャッチフレーズにスタートした。和牛が生まれてから市場に出るまで最低3年はかかるため、独立したての不安定な時期は内助の功に支えられた。 今でこそレストランは首都アスンシオン中心街から延びる大通り沿いにあり、周辺も発展したが、当時は荒地の広がる辺鄙な場所で知名度も上がりにくかった。 「和牛」と言っても、「犬の肉か猫の肉か?」と聞かれる始末。「日本食店なのにスシはないのか」とも言われるので、スシを作り始めたところそれがおいしいと評判になり客が増えた。 和牛の生産・販売の難しさは、牛一頭を売り裁くことにある。パラグアイの一般的な牛と比べると一頭が4倍以上の価格で取引されているが、カットされた肉は、最も脂がのった柔らかいロース、ヒレ、ピカーニャ(ランプキャップ)といった高級部位はすぐに売り切れるが、モモやすねなどは高値だと売れ残り採算が合わない。 米国などのように高級部位と抱き合わせで購入するシステムもない。丸1頭をどのように売り裁くかが課題であった。それを解決したのがアリシアさんの発案した和牛の串焼きだった。
愛妻の生んだ和牛のアサディート(串焼き)
「薄切り肉に野菜を巻いていた時、新しい和牛の串焼きを思いついた」というアリシアさん。薄切りにしたモモ肉に様々な部位の細切れ肉を巻いた和牛の串焼きが誕生した。高価な和牛だが、パラグアイ伝統のアサディート風にすることで、一気に庶民的になり食べやすくなった。 毎日夕方、店頭で和牛の串焼きを炭火焼きしていると、食欲をそそる香りに人々は引き寄せられ、一本食べるとこれまでにない牛肉の味に虜になった。 「初めて和牛の串焼きを出した日は50本全てが完売したので、翌日には100本を作るとまた完売。1カ月後には家族総出で1日1千本を作っていた」と予想外の人気ぶりに、林さんの和牛生産は支えられることになった。今も週平均4500本を手作りし、レストランと他店への卸も含めて1日約500本が販売されている。 「毎日レストランでも農場でも夫婦一緒。60歳の誕生日には赤いバラを60本プレゼントしてくれた」とアリシアさんは頬を緩め、「ブラジル、チリ、ウルグアイなど南米各国産の和牛を食べたけど、父ちゃんのが一番おいしい」と林牧場の和牛の一番のファンである。 『デリシアス・ハポネサス』は日本食ブームの追い風も受けて売り上げは伸び、一時は2号店やハンバーガー専門店もオープンした。現在は姪が後を継ぎ、一号店と市内のショッピング・ソルのフードコートでのみ営業している。和牛を使用したステーキ、すき焼き、しゃぶしゃぶなど高級日本料理も名物で、「パラグアイにいるのを忘れさせられる味」で首都のグルメスポットになっている。 林さんは2021年には日本の農水省から日本食普及の親善大使にも任命され、自家製和牛を通じて正真正銘、日本の味をパラグアイで伝えている。(続く)