当初は「オーバーランぐらいかなと」…凄惨な墜落現場、救急隊員が伝え続ける教訓【中華航空機事故30年】
名古屋空港で中華航空機が墜落し、264人が亡くなった事故から26日で30年を迎えます。壮絶な事故現場で必死に人命救助や身元確認を行った方々に、積み重ねた30年間の思いを聞きました。 【動画】当時の懸命な救助活動…中華航空機事故から30年 当時、真っ先に現場へと向かった救急隊員。 「『名古屋空港でエアーバス機が墜落』という指令がかかった。名古屋空港でバスが墜落・炎上?ハテナ?という感じで」(西春日井広域事務組合 東消防署長 高木幸彦 署長) 徐々に明らかとなった、厳しい現実。 「オーバーランぐらいかなと勝手に解釈はしたんです。どうも墜落だとラジオで言っていたので、これは何かただならぬことかなと」(遺族の酒井光男さん) 壮絶な現場で、懸命な活動が続きました。 「歯型で身元を判明して、早くご遺族にお返ししたいという気持ちが一番でした」(身元確認を行った歯科医 紀藤政司さん) 中華航空機の墜落事故から30年。それぞれの立場で、いま何を思うのか。次の世代に、何を伝えていきたいと願っているのでしょうか。
遺品のフィルムに残された両親の姿
今年も迎えた「慰霊の日」。 名古屋空港に隣接する「やすらぎの園」では、遺族らが犠牲者を追悼し、空の安全を祈りました。 中華航空機の墜落事故で両親を亡くした酒井光男さん。愛知県岡崎市で、ラーメン店を営んでいます。 「当時のものはね、これですね。(遺品の)カメラの中に入っていた、フィルムとして入っていたやつを現像して、これはうちの親父とおふくろですね。2人が寄り添っている写真っていうのが、これが最後」(遺族の酒井光男さん) 両親が楽しみにしていたという台湾旅行。出発の前日、こんなやりとりがあったそうです。 「親父が、旅行に行く前に靴を新調したということで『これ新しく買ったからお前のと一緒だよな、履いていくわ』と履いていったんです」(酒井さん)
遺体の毛布を1枚1枚確認、履いていた靴が…
1994年4月26日。酒井さんの両親を乗せた中華航空機は名古屋空港で着陸に失敗し、乗員・乗客合わせて271人のうち264人が亡くなりました。 当時、会社勤めをしていた酒井さんはすぐに空港へ向かい、他の家族とともに待合室に入りました。 「空港の待合室にテレビがあって、それでしか分からない状況だった。どういう状況が起きているか、病院に搬送されたのは何人いるか。全然わかんない状態で」(酒井さん) 一夜が明け、バスで連れて行かれた場所は、空港の格納庫。多くの遺体が並ぶ中、掛けられた毛布を1枚1枚外して必死に両親を探したといいます。 「ずっとご遺体を見ている中で、下半身だけはズボンが焼けてなかった。洗濯のタグが『酒井』と書いてあった、あれ…と思い、ずっと下を見ていったら“その靴”を履いていた。だから『あ~』と思って親父だなと思ってね、もう泣きじゃくりましたね。本当にうわ~っという、あの感情ですかね」(酒井さん)