笠谷幸生さんから聞いた札幌五輪秘話 金メダルジャンプの“原点”は野球
1972年札幌冬季五輪スキー・ジャンプ男子70メートル級金メダリストの笠谷幸生さんが亡くなったという、26日の悲しいニュースにショックを受けた。五輪担当記者時代は夏季五輪を中心に取材していたこともあり、笠谷さんとは数度お会いしただけだったが、2009年に連載企画のため、お話しを聞かせていただく機会があった。札幌五輪で銀の金野昭次さん、銅の青地清二さんとともに表彰台を独占したが「会場(宮の森)が異様な雰囲気だったのを思い出しますね。自分も興奮していたんでしょうけど、体が震えるというか、背筋がスーッとなるような周りの興奮度を感じた。狭い会場だから、観客も近かったし」と、目を細めて優しい笑顔を見せていただいたことを鮮明に覚えている。 メダル独占について聞くと「私なんか、おまけですよ。金野選手がまず決めて、次に青地選手が決めて、私は最後ですから。最後に飛ぶのは楽なもんですよ。ほぼ決まったような、ね」と控えめに言った。「日の丸飛行隊というのは日本代表のことですから。私個人がどうのこうの、というのではない。みんな、ずっと小さい時からの仲間。藤沢(隆)さんも含めて、それぞれが自分の責任をきちっと果たせる年齢。そりゃあ、ライバル心も人一倍強かったけど、それがあって初めて4人が代表に選ばれた。“四者四様”ですから」。笠谷さんは質問に少し間を置いてから淡々と話したあと、ニコッとする―という状況が続いた。そして「五輪って何が起こるか分からない。こういうこともあるからね」と当時の記事コピーを指さして、つぶやいた。「だって、世界の人はこんな結果(日本がメダル独占)になるなんて、誰一人、思っていないもの、この時代ではね。モルクもいたし、タンネベルグもいたし、東ドイツ、ノルウェー、ロシアも強かったから」 子供の頃は野球が好きで、草野球を楽しんだという。笠谷さんのアプローチ姿勢は、キャッチャーが送球する姿勢に似ていた。「参考にしたというか、自然になったんですね。ランナーが出た時、キャッチャーはいち早く送球できる体勢になる。ジャンプ競技のテークオフもそれと同じことですから。その形が、たまたまそうなったのかもしれません。野球といっても少年野球…草野球で。キャッチャー、好きでしたねえ。でも、なかなかやらせてくれなかったけどね」と、また笑った。 続く90メートル級は、2本目が突風の影響を受け7位だった。成功よりも失敗した時の方が記憶に残っているそうで、風など様々な状況が重なったと前置きしたうえで「結局、技術の未熟なところが原因ですよ」と言った。「金メダル2つ、欲しかったねえ。札幌は70メートルの歓喜と90メートルの悔しさを味わいました」。五輪後は「おめでとう」と言われたことが少なかったという。「私の顔を見ると『残念ですね』と言われることが多かったですね。今は金メダルの映像が流れるけど、五輪が終わった当時は、失敗の方が非常に印象に深かったようですよ」と苦笑いしながら複雑な心境を明かした。 ジャンプ競技についての思いを最後の質問とした。「ジャンプは、一番小さなエリアで遊べるスキー。競技になっても、面白くなかったら、やっていないよ。スポーツって、遊びで始めて競技力がついてくると、それが楽しさの一つの要素になる。ジャンプは特にそうなんです。技術の伴っていない人が大きな競技場でジャンプするというのは非常に危険なことだけど、技術があれば、何の心配もない。非常に楽しい遊びになるんですよ。それを積み重ねていくうちに、楽しさの中にだんだんと幅というか、還元ができてくる。ジャンプは短時間で、緊張と開放感と少しの征服感が得られる。スポーツの3大要素が、15秒の間に得られるんですから。子供たちにとっては、勇気と決断力が身につくスポーツじゃないかなとも考えています」。取材メモは、未来のジャンプ界を支えるであろう子供たちへのメッセージで終わっていた。 知識も少ない記者のつたない質問に一つ一つ、丁寧に答えて下さった笠谷さんに改めて感謝したいと思います。心よりお悔やみ申し上げます。(記者コラム・谷口 隆俊)
報知新聞社