生島ヒロシ初のコミュニティFM! 長男・生島勇輝と親子共演「人生はラグビーボールのようなもので、どこへ飛んでいくかわからない」
◆子どもの頃は野球選手に憧れていた?
親子共演となった初回の放送では、ふたりがそれぞれの幼少期について振り返り、将来の夢を明かす場面がありました。 生島:1950年に生まれて、気仙沼で生まれ育ち、高校まで地元にいましたね。我が家は豊かではなく貧乏でしたけども、父と母、母方の祖母みんなが一生懸命働いていて。父は地元の会社に勤めていて、そこはエンターテインメントというか、映画の仕事をやっていたんですよ。たしか、映画館を5館ぐらい経営していたのかな。いわゆる漁港、港町ですから全国の船が気仙沼にたくさん集まっていましたね。 生島(勇):世界中からね。 生島:気仙沼が絶好調の時代を見ていましたよ。子どもの頃の思い出の1つとして、家の前が大きなカーブになっていて、そこにサンマをたくさん積んだトラックがカーブを曲がるとバタバタとサンマを落としていくわけですよ。 我々は落ちたサンマを拾って、晩御飯にしたわけです。それをあなたがお世話になっている映画監督の堤幸彦さんが面白いということで、「デンマークとさんま十勇士」(2018年/原案・生島ヒロシ)という作品を作ってくれました。 生島(勇):ミュージカルでしたね。 生島:映画監督やクリエイティブの世界の人っていうのは、ちょっとしたことでも着想を得て作品にしてしまうというね。また新たに宮城県を舞台にしたものをやるかもしれません。 そんな子ども時代でしたけども、家には映画しか娯楽がなくて、そこから段々とラジオ、テレビ放映が始まりました。テレビで映し出された長嶋さんとか王さん、力道山などに魅了されて、貧乏ながらに日々面白かったんですよね。 将来は野球選手になると言って、学校から帰ってくると素振り100本。冬場はスポーツ新聞を読んで、プロ野球選手のキャンプイン情報を得て「自分もキャンプインだ!」と、近くの材木工場でウェイトトレーニングなんかをやっていましたね。 生島(勇):へええ! その話は初めて聞いた(笑)。 生島:将来はプロ野球選手になろうと思って、そういうことをやっていたわけ。 生島(勇):けっこう没入するタイプだったわけですね。 生島:長男の勇輝が1984年生まれで、次男の翔が1985年生まれ。中学校に上がるまでの思い出ってどんなのがあるの? 生島(勇):僕らはJリーグが始まった世代で、自分たちが行っていた学校はサッカーが強かったですね。僕らは小学生の頃からサッカー部に入っていて、同じように学校から帰ってくると「キャプテン翼」に憧れて、どこに行くにもサッカーボールを蹴って壁にシュートする時間を過ごしていました。 生島:俺たちの時代は野球とプロレスで、そちらはサッカーという。これは時代が表れますね。