「私はハルビン生まれだから」…… 加藤登紀子にとっての名曲『百万本のバラ』とは
ニッポン放送で毎週木曜日の夜8時からお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。 この番組は、日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。
11月7日(木)の放送では、歌手の加藤登紀子が登場。加藤は、1943年、ハルビン生まれ。1965年、東京大学在学中、第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し、歌手デビューを飾ると、1966年、『赤い風船』でレコード大賞新人賞を受賞。1969年には『ひとり寝の子守唄』、1971年には『知床旅情』でレコード大賞歌唱賞を受賞。以降、80枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出してきた。 旧満州(中国東北部)のハルビンで生まれ、日本の敗戦を経て、3歳で日本へ引き上げた加藤。当時のハルビンの様子を振り返った。 加藤:満州の中で、ハルビンっていうのはロシアが最初に開いた町。極東にね。その後、ソ連という時代が来るんだけど。私たちは、極東に足を伸ばしたロシアが作った街で、ロシアの人がこの街を作るために集められてるわけね。だからハルビンっていうところは、いろんな人がいた。まず街を建設するために移住させられた人たちが、どんどん移住させられて、ポーランド人とかユダヤ人とか、ウクライナ人が多かった。ハルビンはね、今のウクライナ人が、人口の半分だった。それを私たちは、丸ごとロシア人として呼んできたんです。 2022年2月、ロシアがウクライナへの本格的な軍事侵攻を開始。深いゆかりのある加藤は何を思うのか。 加藤:ウクライナとロシアの戦争が始まった時に、ウクライナという確固とした国と、ロシアという確固とした国がぶつかっていると。戦争じゃないと。なんとも言うに言われぬ内戦とは言えないんだけど、もう本当に苦しい攻め合い。どちらの人にとっても、すごく苦しい戦争だなっていうのはありました。 加藤の代表曲のひとつ「百万本のバラ」は、旧ソ連の構成国であるジョージアの画家ニコ・ピロスマニがモデルとなっているといわれている。ハルビンで生まれた加藤にとって、「百万本のバラ」は、どんな存在なのだろうか。 加藤:「百万本のバラ」のモデルと言われている画家ニコ・ピロスマニというユニークな画家、今やもう国民的英雄なんだけど。彼の国のジョージアっていう、ちょっと前はロシア語でグルジアって言われた国ですけど、そこに行ったんですよ。「百万本のバラ」を歌ってきた私としては、お返しに行かなきゃ、お礼に行かなきゃいけない国だと思って行ったんですけど。そのジョージアでいろんな人と会ったんですよ。 「百万本のバラ」を作詞者に関係を持つ人たちに会い、こんな体験をしたという。 加藤:この歌にまつわる作詞をしたボズネセンスキーの亡命生活中だった頃の友人たちにも会った。そしたら「トキコはどうしてそんなに百万本のバラに深い出会いをしたのか?」聞かれて。一言で答えるとしたら、私はハルビン生まれだからかもって言ったら、ジョージアの人が全員うなずくんですよね。ジョージアというあんな遠い遠い国からも、ものすごくたくさんの人が、ハルビンに移住したんだって。