セナの死から30年 改めて安全性の重要さを思う
【ベテラン記者コラム】今年も、あの日がやってくる。1994年5月1日、F1ドライバーのアイルトン・セナがサンマリノGP決勝中の事故で死去してから、もう30年。当時日本のF1ブームの中心的存在だった。 【写真】1994年のF1世界選手権シリーズ第2戦「パシフィックGP」 ウィリアムズのアイルトン・セナの走り 世界王座を3度獲得したブラジル人は、速さと求道者のようなキャラクターから世界中のファンに愛された。いずれもホンダエンジン搭載のマシンで王座を獲得し、存命だった本田宗一郎氏が手を取って「ありがとう」と伝えたエピソードはよく知られている。日本人はより親しみを抱き、母国ブラジルに次いでファンが多いとされていただけに、衝撃的な死に国内でも悲しみは深かった。 あのサンマリノGPでは、初日にルーベンス・バリケロ(ブラジル)が意識を失うほどの大クラッシュ。2日目には、前年まで全日本F3000(現スーパーフォーミュラ)に参戦していたローランド・ラッツェンベルガー(オーストリア)がクラッシュで死去した。F1のイベントでは12年ぶりの死亡事故だった。 不穏な空気に包まれた3日目。決勝はスタート直後のクラッシュで、外れたタイヤが客席に飛び込んで負傷者が出る事態に。事故処理のためのセーフティーカー先導後、6周目に再開された直後だった。左高速コーナーのタンブレロを直進したセナのマシンはコンクリート壁に激突。レースは赤旗中断となった。 当時はCSの生放送などなく、フジテレビの地上波はレース後に番組が始まるディレー中継。グループの関係で、社内でライブ映像を見られた私は、大変なことになったと固唾をのんで見守っていた。だがセナがヘリコプターで搬送された後、再開されたレースが終了すると、現地からの映像も終了した。 その後の地上波番組はいつもと違う生中継で、現地の三宅正治アナウンサーが緊迫した表情で事故を報告。やがて番組中に死去が伝えられると、解説者の今宮純さんは涙をこらえながら言葉を絞り出していた。 事故報告書や、所属したウィリアムズ・チームをイタリア検察が訴追した裁判などから、死因は折れたサスペンションアームがヘルメットを貫通してセナの頭部を損傷させたことと判明。一方、事故直前にマシンコントロールを失った理由は、さまざまな説があるが確定されてはいない。