「こんなすごい子がいるんだ」 松田聖子、16歳のデビューに立ちはだかった父の存在
そのとき、時空を二つに分けるように一本の線が引かれた気がする。言ってみれば、彼女の歌声が人々の心を動かし始める前の世界と、以後の世界だった。証として私は既にそのテープを何度も繰り返し聴き始めていた。歌声の衝撃を例えるなら、真夏のスコールの後に曇天が消え去り、どこまでも永遠に続く南太平洋の青空が眼前に広がったかのようだった。
「こんなすごい子がいるんだ!!」 声量もある。かわいさもある。存在感もある。聴いているだけで胸が高鳴り、どこか楽しい場所へと出かけてみたくなる。この日の出会いがなければ、私の人生も彼女の人生も、いまとは違うものになっていただろう。 いまでも私は自分がたいそうなことをしたとは微塵も思っていない。けれど、いつの日も音楽を愛し、いい楽曲を世の中に届けたいと願ってきた。音響メーカーが作った新進のレコード会社であるCBS・ソニーに入社したのち、日本の音楽界に新風を吹き込みたいと心に秘め、世の中の多くの若者が思うのと同じように、私も世界を変えてみたいと小さな夢を抱いていた。しいて言うなら、その願いを形にする機会に少なからず恵まれただけなのかもしれない。 「すごい声を見つけてしまった」 私は心の中でつぶやいた。
ミスセブンティーン・コンテスト
ミスセブンティーン・コンテストの九州大会が開催されたのは1978年の4月7日。私がプロデューサーとして勤務するCBS・ソニーと、集英社の雑誌『セブンティーン』が共同主催するコンテストで、全国からの応募総数は5万人以上。各地区大会ののちに決勝大会が東京で開催されていた。 しかし九州大会で優勝したその歌声の持ち主は、なぜか本選を辞退してしまったという。 福岡県久留米市在住の高校2年生、3月10日生まれで16歳になったばかりの蒲池法子(かまちのりこ)、のちの松田聖子だ。いったい彼女に何があったというのだろうか。 「この子すごくいいと思うんだけど、直接、私が連絡してみてもいいですか?」 各地区の音源を用意してくれたコンテスト事務局のスタッフに、テープを聴いた衝撃そのままに駆け寄ると、「いいですけど……」と予想に反して怪訝そうな返事が返ってきた。続けて、「でも多分ダメですよ。父親と学校が強硬に反対していて、かなり難しいみたいだから」と力のない声が。父親? 学校? まずは本人と話してみなければわからないじゃないか。営業時代から開拓者精神を持って、どんな局面でも常に突破口を見つけ出していた私は、「仕事に障壁はあって当然だろう」と特に疑問も抱かずその話を聞いていた。 何より、こんな才能を埋もれさせるわけにはいかない。私はスタッフに礼を言ってカセットテープを借りると、名前と電話番号をメモして、すぐさま彼女に連絡を取るためオフィスに向かっていた。 おかしな話だが、この時点で私は歌声の主の顔をきちんと確認した記憶がない。スタッフが去り際に「かわいい子ですけどね」と小さく言っていたのは覚えているのだが、とにかく早くその歌を直接聴いてみたいという気持ちが勝っていた。私は本当に「声」だけでそのテープを選びとっていたのだ。 彼女が歌っていたのは桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』。考えてみれば『気まぐれヴィーナス』は素人が歌うには難曲であった。当時は誰もが口ずさんでいたヒット曲だが、桜田淳子独特の鼻にかかった歌声とコケティッシュな魅力の上に成立している楽曲で、他の人が歌うとモノマネになるのが関の山。場合によっては間抜けに響いてしまうことも多かった。 それを16歳になったばかりの少女は、実に楽しげにのびのびと歌っていた。まだ荒削りであったが、まるで最初から自分の持ち歌であるかのような存在感が歌の中にあった。 さらに言えば、声全体から大衆の心を動かすような潜在力さえ感じられた。私は自分と同じく直感のままに生きているような、野性味あふれる歌声に強く惹かれた。その声は見つけてくれる人を待ち侘びているかのようでもあり、無垢で無邪気な佇まいのままだった。 思えばそれは歌手・松田聖子の産声だったのだ。 *** 松田聖子の「声」に魅了された若松さんは、早速連絡を取る。が、そこに立ちはだかったのが「強硬に反対」しているという父親だった。その壁の厚さについては中編で詳報する。 ※『松田聖子の誕生』から一部抜粋、再構成。
若松宗雄(わかまつ・むねお) 1940(昭和15)年生まれ。音楽プロデューサー。CBS・ソニーに在籍、一本のカセットテープから松田聖子を発掘した。80年代後期までのシングルとアルバムを全てプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長を経てエスプロレコーズ代表。『松田聖子の誕生』が初の著書。 デイリー新潮編集部
新潮社