定子の面子崩す「道長の策略」まさかの人物の憤慨 道長と近しい人も、数々の行いに苦言を呈した
「御輿が板門屋に出入りするなど聞いたことがないよね……」 バタバタのなか、大きいお腹で移動することになった定子。すでに十分惨めだが、皇后が外出する「行啓」にあたっての上卿、つまり、責任者を務める公卿も、誰もいなかったという。一条天皇が再度、呼びかけたことで、藤原時光と実資が手を挙げて、結果的には、時光が引き受けている。 実は、この行啓の日に、道長はあえて宇治の遊覧に出かけている。道長に同行した公卿は、藤原道綱と藤原斉信の2人で、多くの公卿は自宅にひきこもって、様子見を決め込んだ。
そんな道長の行動を、実資は「行啓の事を妨ぐるに似る」(后のお出ましを妨げるようなものである)と批判している。 一条天皇と定子の関係はあってはならないことだが、だからといって、行啓を妨害するような真似はよくない……実資には、そんな一本筋が通ったところがあった。 ■強引な道長パパに反発した彰子 我が道をゆく実資は、道長が彰子の入内にあたって、和歌を集めた屏風を持参させようとしたときも、協力を拒んでいる。
道長からすれば、娘の入内に華を添えたかったのだろう。藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢など選りすぐりの歌人に和歌を依頼。みなが引き受けるなか、実資だけが「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と頑として協力を拒んだという。 いつでも周囲に流されない実資の態度は立派だが、道長もまた、そんな人材を排除しなかった。それどころか、実務能力を評価し、むしろ重宝したことについては、道長に「リーダーの器」を感じさせる。
その一方で、娘の彰子は、押し出しの強い父が嫌でたまらなかったらしい(記事「孫を皇太子にした道長を恨む“意外すぎる人物”」参照)。 彰子は、一条天皇と自分の間に生まれた息子の敦成ではなく、定子との間に生まれた敦康を後継者にと望んだが、かなわなかった。敦康があまりに不憫だと感じたからだというが、道長からすれば、理解できない理由だったことだろう。 ■反発が我が子に向かうことを恐れた しかし、実資のように、誰からもわかるかたちで反発の意を示す者はまだマシで、多くの人は、相手への失意を胸に抱けば、黙ってその人から離れていく。