ラストスパートなのに「翻訳せずに待て」...急ピッチの「翻訳劇」のウラに隠されていた衝撃の「裏事情」
「ジョブズのCEO辞任」で原稿差し替え
9月7日、ジョブズのCEO(最高経営責任者)辞任(8月24日)をうけて第36~41章を書き換える、新しい原稿は15日に送る、翻訳はせずに待てとの連絡が届きました。メールを読んだ瞬間、やばいと思いました。 15日に送るというのは、米国発送なのか日本到着なのか、日本到着はいつになるのか、15日は木曜日だからそれが発送日なら時差もあって到着が週末にかかる可能性が高いが、週末でも受け取れるのか、それとも週明けになってしまうのか。訳出に使えるのはあと2週間ですから、原稿が届くのが1日違うだけでも大違いです。それが二日も三日も違う可能性があるわけです。メールが何通も飛び交いました。 私の危機感を講談社さんも理解してくださり、いろいろと確認してくれました。そして、15日に米国発、講談社さんは週末でも荷物が受け取れるが、運送業者が週末休みのFedExなので受け取るのはまずまちがいなく月曜の19日になってしまうことがわかりました。 というわけで、18日に第35章を訳し終えるくらいまでペースを落とし、空いた時間は、下巻前半の読み直し・修正にあてることにしました。実績記録を見ると、9月の10日ごろから20日ごろにかけ、訳出が計画を下回るペースに落ちているのですが、それはそういう理由からです。 19日の月曜日、届いた原稿をもらって八ヶ岳側に移動(原稿をもらったとき、下巻の3分の1、第22~28章の訳稿も納めた)。移動の時間をかけてもひとりで山ごもりしたほうが仕事が進む、そのくらいしないとまにあわないと踏んだからです。金曜日かせめて土曜日に届いていればそのまま東京で作業をしたかもしれません。20日からあとは、一日4000~5000ワード以上。1週間強なら体力を使い切っても気力でなんとかなります。
たかが、されど、出典情報
そうそう、最後の原稿と一緒に出典情報が届きました。「本文中のこの言葉は、これこれこういう雑誌のこの記事に記載されていたものだ」など、論拠を示す情報です。英語圏ではいわゆるエビデンスが重視されるので、翻訳書の原書には必ず出典情報が記載されています。論拠となる情報を示してくれた人を尊重し、その業績をたたえる意味もあります。 「いまになって届いてもなぁ」と思いました。 ふつうはこのまま本になるというレベルの原稿が届くので、出典情報も入っています。ですから、当たれるかぎり原典に当たって訳します。書籍に引用されている部分の前後を読むと、引用部分の言葉がどういう意味で使われているのかも理解が深まりますし、著者がなにを考えてそこを引用したのかなどもある程度は推測できるので、訳文も一段いいものにできるからです。 ですがこのときは、ここまで出典情報なしで訳さざるをえませんでした。また、最後になって出典情報が届いても、出典を一つひとつ確認し、それに応じて訳を修正するだけの時間はありません。そういう二度手間をかけられる時間的余裕はなかったのです。 山ごもりをしていた9月24日、講談社さんのサイトやアマゾンなどに書影が出て予約が始まりました。ふつうならゲラ修正も終わり、あとは印刷・製本とどうまちがってもまず遅れることがない段階まで作業が進んだ時点で発売日が決まり、予約も始まるものです。 それが、まだ翻訳さえも最後までいっていない段階で予約が始まったわけです。世界同時発売という縛りがありますからね。とにかく、最後まで遅れず、こけずにがんばらないといけません。あらためて気を引き締めました。 『スティーブ・ジョブズの「突然の訃報」...『スティーブ・ジョブズ』の翻訳者が世間とは違う「意外な反応」をした「納得のワケ」』へ続く
井口 耕二(翻訳者)
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