手放せない嫉妬・羨望との付き合い方。ネガティブな私を変えた「4つの気づき」
羨望と嫉妬。 多くの人が持つ一般的な感情ですが、どちらもネガティブであり、無益です。 私は長い間、この破壊的な気持ちに侵され、苦しめられてきました。そんな私が、それらのネガティブな感情をどうやって乗り越えたか。それについてお伝えします。
他人の成功が拷問になる。羨望と嫉妬
自分の欠点というものは、なかなか受け入れることができないものです。 でも、欠点を本当に克服するには正面から向き合わなければならないことを、私は学びました。 ミドルチャイルドシンドローム(真ん中っ子症候群)のせいか、それとも心の底にある負けず嫌いの精神からか、 自分が持っているものを誰かに取られるかもしれないという嫉妬自分が持っていないものを誰かが持っていることをうらやむ羨望 私にとってはどちらも自然に訪れる感情なのです。 いちばん古い記憶は、9歳のころのクリスマスの出来事です。弟が姉に、大切にしていたトランスフォーマーのおもちゃをプレゼントしました(確か、ラチェットだったと思います。救急車で、変形するとガンを備えたロボットになるやつ)。 ところが彼が私にくれたのは、ただのカードだったのです。その差を知るやいなや、心から怒りがこみあげてきました。 私はおもちゃを壁に投げつけ、カードを破り捨てると、2階の自室にかけあがり、枕を抱えて大声で泣きました。 その後も、似たような感情がたびたび訪れました。たとえばボーイフレンドが私よりも私の友達と長く話したとき。 あるいは、同じ仕事をしていたのに同僚だけが褒められたとき。何かで周囲の皆がより良いものや大きなものへと歩みを進め、自分だけが取り残されたとき。 他人の成功が拷問になるという意味では、他人の不幸を喜ぶ感情とは正反対かもしれません。とはいえ、狭量であるという点は同じ。 そこには、「自分だけないがしろにされた」「不公平だ」、場合によっては「自分は無力だ」という信念があります。
羨望を寛容に変えた4つの偶然
ブレークスルーは偶然訪れました。 とはいえ、そこにテレビ受けするような山場があるわけではなく、非常にゆっくりとした変化でした。正直に話しましょう。 私は羨望の気持ちが自分自身や人間関係にどう影響しているのかを知りませんでした。それどころか、私は自分がそんな気持ちを持っていることすら認識していなかったのです。 この10年、いくつもの変化を経験してきました。おかげで私は、少しずつ健康的な考えができるようになったのです。 自分の感情や思考を意識するようになった 羨望や嫉妬は直感的な感情ですが、新芽のうちに摘み取ることはできます。 その前に、まずはそれらの感情が自分の中に存在することを認識しなければなりません。 私の場合、改善のきっかけとなったのは、数年前にはじめたヨガでした。通っていたジムで、たまたまよさげなクラスが開講したのです。 定期的な運動をはじめただけでも、睡眠や自信、心身の健康など、人生のさまざまな側面に効果があったと思います。 ヨガはそれに加えて、瞑想やマインドフルネスのトレーニングになります。 おかげで私は、自分の中のネガティブな感情を自覚し、それを取り除けるようになりました(羨望だけでなく、緊張などその他の感情も認識できるようになりました。怒りなどのネガティブな感情に苦しんでいる人は、この方法が効くかもしれません)。 競争と比較の違いを知った 「人と人とを比較するものじゃない」とよく言われます。比較は不快であるという意味でしょう。そして、羨望と嫉妬は、比較そのものです。 まるで人生が会計ゲームかのように、ある人と自分自身の違いを積み上げ、自分が赤字でないことを確認するという行為なのです。 一方で競争とは、あまり深刻になりすぎたり個人的になりすぎたりしなければ、むしろ役に立つものといえるでしょう。 高校時代の英語教師がいつも「比較は無益だ」と繰り返していましたが、ようやくその意味がわかりかけてきた気がします。 自分と他人との比較は、スポーツマンシップにのっとった健全なる競争とは、趣を異にするのだと。 感謝と幸福の練習をはじめた 作家ハロルド・コフィンは次のように言いました。 嫉妬とは、自分ではなく他人の幸福を数える術である。 私は若いころ、自分の幸福を数えていました。 でも、なぜだかそれを幸運と思えず、むしろ罪悪感を覚えたものです。 素晴らしい世界に生まれたが、それは自分で手にしたものではない。だから自分はそこにいる資格がないと思って生きてきました。 そんな私ですが、今は毎朝目が覚めてからベッドを出るまでの10分間、感謝の練習をしています。 きっかけは待ち望んでいた娘の誕生でした。 夢がかなったと思った瞬間、この幸運は偶然で謝罪すべきものではなく、私にはそれを手に入れる資格があると思えたのです。感謝を練習するほど、寛容になっていく自分がいました。 時間をかけたことだけでなく、感情のエネルギーによるところも大きいでしょう。私はいつしか、他人の功績を喜べるようになりました。 かつては「いい記事だ」と思ってもそれを著者に伝えることはありませんでしたが、今ではそれを誠実に伝えることに何のためらいもありません。 最低でも、「いいね」ボタンを押すようになりました(「感謝は言葉にしなければ意味がない」ですしね)。 褒めることは有限なリソースではないことを知った 子どものころ、親が私以外のきょうだいと長い時間を過ごしていると、腹が立ったものです(真ん中の子はつらいよ)。でも今は、そんなことがあってもなんとも思いません。 なぜなら、愛情も感謝も、そのほかの良い気持ちも、ガソリン不足のときのガソリンのように分配されるわけではないから(たとえば人々がほかのライターの記事を気に入ったからといって、私の記事を嫌うわけではないですよね)。 このことを学んだのは、皮肉にも我が娘に、きょうだいを持つことの意味を説明しようとしたときでした。 いえ、そのずっと前、ドラマ「フルハウス」でボブ・サゲットが子どもたちに、彼の愛は無限に供給される水であり、子どもたちはティーカップであり、そこにはいつも愛があふれていると説明していたときに学んでいたはずです。 ちょっとだけ、その意味を理解するのに時間がかかってしまったようですね。 以上、ここで紹介したのは、私が自分を変えようとした努力の記録です。 その結果、感謝のしかたや他人との付き合い方にも変化がありました。 え? 私はまだ、他人をうらやんだりねたんだりしているかって? 答えはイエスです。 でも、自分を変える努力を続けることで、それらの感情にコントロールされるのではなく、むしろこちらがコントロールする側に立てるようになってきた気がします。 ──2021年1月13日公開記事を再編集して再掲しています。 Source: healthline, The Phrases FInder
堀込泰三