細野さんに聞きたい、あの曲、この曲(前編)
細野晴臣が生み出してきた作品やリスナー遍歴を通じてそのキャリアを改めて掘り下げるべく、さまざまなジャンルについて探求する「細野ゼミ」。2020年10月の始動以来、「アンビエントミュージック」「映画音楽」「ロック」など全10コマにわたってさまざまな音楽を取り上げてきたが、細野の音楽観をより深く学ぶべく今年から“補講”を開講している。 【イラスト】山下達郎にコーラスのディレクションをする細野晴臣 ゼミ生として参加するのは、氏を敬愛してやまない安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO'S)という同世代アーティスト2人だ。ひさびさの講義となる今回、細野の活動55周年に際して音楽ナタリー編集部が設けたテーマは「細野さんに聞きたい、あの曲のこと、この曲のこと」。ゼミ生の2人が細野がこれまで関わってきた楽曲の中からいくつか作品を挙げ、それぞれの視点から細野本人に質問してもらった。 取材・文 / 加藤一陽 題字 / 細野晴臣 イラスト / 死後くん ■ 「最後の楽園」はどうやって生まれた? ──今回からは補講として、ゼミ生のお二人が細野さんに聞きたいことを直接質問していく企画をスタートします。1、2回目は安部さんが担当ということで、よろしくお願いします。 安部勇磨 はい。今回聞きたいのは……具体的にいくつか曲を用意してきたんですけど、「最後の楽園」「蝶々-San」「恋は桃色」「ハニー・ムーン」などについて、それぞれどう作られたのかなって。 細野晴臣 全部忘れたな(笑)。 ハマ・オカモト もう何も出てこない(笑)。 ──「最後の楽園」は、細野さん、山下達郎さん、鈴木茂さんなどが参加した“アイランドミュージック”がテーマのコンピレーションアルバム「Pacific」に収録されていますね。 細野 かなり古いよね。当時のことはだいたい覚えているけど、どうやって作ったかは全然覚えてないなあ。 ハマ あのプロジェクト自体が、そもそも特殊ですよね。 安部 依頼が来たんですか? 「こういうアルバムを作ろう」「“南の島”をテーマにやろう」って。 細野 来たんだろうね(笑)。「Pacific」はインスト縛りだったよね。完全にマーティン・デニーのカバーに聞こえちゃう。あれって何年? ──1978年です。 細野 78年か。リンダ・キャリエールをやっていた頃だ。自分の中では「トロピカル・ダンディー」の流れが続いていたんだ。 安部 「最後の楽園」は、大好きでよく聴いているんですけど、使っていたシンセとかって覚えていますか? 最初の“ひよひよひよひよ……”っていう音、シンセなのか、鳥の声を録音したのか、何なんだろうって気になっているんです。 細野 昨日のことなら答えられるけど、78年だから……(笑)。でも録音はしていないと思う。だいたいシンセでやるのが趣味だったんで。あの頃、鳥の音とか声とかを作っていたのはたぶんKORGのアナログシンセだね。MIDIは付いていないと思う。単音のフレーズはARPのシンセじゃなかったかな。メロディは誰が弾いたんだろう。自分かな、坂本(龍一)くんかな。そういうことは覚えていないんだよな。 ハマ 「最後の楽園」って、タイトルもいいですね。あれが天然の生き物の声だったらいわゆるトロピカルで生っぽい音楽ですけど、シンセで作っているとしたら、ちょっとディストピアな意味合いも生じてくるというか。 安部 78年っていうと、細野さんは何歳ですか? 細野 31歳かな。 安部 はあ、31か……僕は34歳になっちゃいました……恥ずかしい(笑)。 ハマ 恥ずかしかないだろ、別に。 細野 じゃあ歳上だ(笑)。 安部 当時細野さんには、レコード会社から「こういうテーマで作って」というオファーがたくさんあったんですか? 細野 そんなにいっぱいはないけど、例えばソニーから「The Three Degreesのシングルを作ってくれ」とかね。そのときはちょっと興奮したな(※この依頼で作られた「Midnight Train」は、作詞が松本隆、作曲が細野、編曲が矢野誠、演奏がティン・パン・アレー)。The Three Degreesは、僕だけじゃなく筒美京平さんが担当したプロジェクトもあって、そっちは大ヒットしてね。こっちはしょぼんとして(笑)。 ハマ 今となってはどっちもすごいっていう話ですけど。 ■ 細野が「これはやったぞ!」と思った曲は 安部 細野さん、曲ができて自分で「これはやったぞ!」と思うことは? 細野 ソロではときどきあるね。最初にそう思ったのは「泰安洋行」の「Roochoo Gumbo」で、「すげえ!」と思ったよ、自分で。初めて自分のイメージが定着した気がしたっていうか。周りの人は「怖い音楽だ」って言っていたけど(笑)。 安部 僕、初めて聴いた細野さんの作品が「泰安洋行」の「蝶々-San」でした。本人を前に失礼ですけど、ジャケットを見て「この怪しいおじさんはなんだ?」って思いながら聴いたんです。 細野 まだ20代だったよ(笑)。 ハマ そうだよ、おじさんじゃないんだよ、全然(笑)。でもわかるよ。俺らが10代のときはそう見えるよね。 安部 それで「蝶々-San」を聴いたら、「どうやってこの曲を作った?」って本当にわからなくて。そこを改めて伺いたいんです。 細野 それ以前からニューオーリンズのリズム&ブルースが大好きで、しょっちゅう聴いていたんだ。ピアノも真似して弾いていたりしてね。それと同時にマーティン・デニーも聴いていたでしょ。さらにその直前に、久保田麻琴くんが沖縄からハガキをくれたわけ。「観光バスに乗ったら『ハイサイおじさん』って曲がかかっててすごいんだよ」って。久保田くんが帰ってきたときに聴かせてもらったら、本当にすごかった。「なんだこれ?」って。その影響も強いよね。あの時代、東京ではもうモダンな音が流行っていたけれど、同じ時代なのにマルフクレコード(※沖縄のレコードレーベル)の録音がすごいオールディーズなんだよね。“いなたい”っていうか、若い頃にチャック・ベリーのオリジナルを聴いたときと同じような印象を受けた。そういう音に憧れていたけれど、あの当時では出せないよ。技術的に、わざと古くすることはできない。“古い”と言っても、僕にとっては新しく聞こえていたんだけどね。いずれにしてもその気持ちがずっとあって、それはいまだに原動力になってる。「蝶々-San」は、そういったものをごった煮にしたんだ。ごった煮ってのは、ガンボミュージックに影響されてる。曲のタイトルは、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」から。オペラのほうはあまり聴いたことはなかったけど、「蝶々さん」って名前が面白いなって。 安部 「♪just-aチョットマテ moment please」の歌詞、ちょっとすごすぎる。 細野 日本語なんだけど、ときどき英語が混じる。ハワイに移住した2世みたいなものだね。“ハリー細野”っていうのは、“フランキー堺”とかと同じようなイメージでやっていた。胡散臭い音楽だし、僕は胡散臭い人間なんで(笑)。 ハマ へー! “ハリー細野”って、そういう由来だったんですね! 僕、下の名前が郁未(いくみ)なんですけど、OKAMOTO’Sに入るとき“オカモトいくみ”って何かハマりが悪いなって思って、ザ・ゴールデン・カップスが好きだから、ルイズルイス加部さんやエディ藩さんみたいなものをイメージして今の名前にしたんですよ。 細野 同じような感じだね。でもそっちは胡散臭さがない(笑)。 安部 「蝶々-San」で「ヴェーイ」って言ってるのは誰なんですか? 細野 この間ちょうど僕のラジオに来てくれたんだけど、山下達郎くんだよ。 ハマ あれ達郎さんなんですか!? 安部 そういうのって、どういう流れで参加することになるんですか? たまたま居合わせて、「歌ってよ」みたいな? 細野 ちゃんと頼んだよ。とはいえ、周りにはそんなに仲間がいないんだよ。当時コーラスを頼むときは、山下達郎、吉田美奈子、矢野顕子、大貫妙子とか。 ハマ 達郎さんがコーラス要員……あなたが藤原さくらちゃんを呼んでるのと近い感じだけど。 安部 確かにね……ありがたい。でも、やっぱり緊張感があるんじゃないですか? そんなメンバーだと。 細野 全然緊張しない。仲間だし。知らない人が来たら緊張するから呼ばないよ。絶対に緊張したくない。 ■ 細野晴臣、究極の時代 安部 続いては「恋は桃色」。これはギターをポロッと弾いて作ったとかですか? 細野 そうそう。あの頃はギターで曲を作っていたから。確か、レコーディングの2、3日前に作ったんじゃなかったかな。イントロとサビがあればレコーディングできるんだよね。ほかの部分はみんなで考えればいいから。 安部 焦りもあったりするんですか? 細野 締め切り直前は、基本的にずっと焦っているんだよね(笑)。 安部 「やんなきゃ」っていうのはあるんですね。 細野 それはあるよ(笑)。予算もスケジュールもカッチリ決まるしね。しかも高い機材が家に届くし、エンジニアも来るし。今はこのスタジオで1人でやるから自由だけど、当時はそんな自由はないよ。エイプリル・フールなんて、アルバムを3日で録らなきゃいけなかった。 ハマ 「細野ゼミ」でお話を聞いてると、細野さんは締め切り間際に能力を爆発させてることが多いですよね。 細野 特に1980~90年代はそうだったね。このスタジオもなかったから。究極の時代が、松本隆の詞に曲を書いていた歌謡曲の頃。あのときが一番テンションが高かった。締切が厳しいから。1週間後にレコーディング、とかね。 安部 曲提供やプロデュースをたくさんやっていた時期って、逆に自分の作品を出したいという気持ちが強くなったりしませんか? 細野 自分のソロのこととかは、あまり考えないんだよな。ソロアーティストとしての自覚がないので。“なんでも屋”なんだよね。頼んでくる人がいるだけいいと思ってて。だって、ソロを作っても誰も聴いてくれない時代だったから。 安部 「恋は桃色」の話に戻るんですけど、歌詞が素敵すぎるじゃないですか。あれってサクサク書けたのか、悩んで書いたのかも知りたいんです。 細野 サクサクでもないし、悩んでもない。「ちょうどいい」というか(笑)。苦労したものだったら覚えてるけど、どうやって作ったかを覚えてないんだよな。狭山に住んでいた頃にできたのは確か。狭山の風土や景色、引っ越したときの感じとか。そういったものから着想したんだと思う。あと、「恋はみずいろ」ってポール・モーリアの曲が好きじゃなかった。好きじゃないってことは、なんか気になるんだよね。「『恋はみずいろ』か……」って言っていたことは確かだよ。 安部 そういう“嫌い”とかの感情も、ポジティブにこういった作品に変わっていくんですね。 細野 あの曲の歌詞で気になっているのは、「♪どうやって来たのか 忘れられるかな」の「かな」のところ。自分で書いたときはいいんだけど、そのあとにそういう言葉使いの歌詞の曲がときどき出てくるようになったんだよ。そういうのを聞いて、「『かな』ってイヤだな」って思っていて。誰のどの曲かは覚えてないけど、何組かいたんだよ。 ハマ え? 自分で書いた言葉でもあるのに? 自分の意に反して広まっていった言葉使い、みたいな? 細野 ほかの人のを聞いて、反省したんだろうね(笑)。 安部 「恋は桃色」って違うバージョンとかもあったんですか? 細野 ない。でもこの頃に「住所不定無職」の原曲も作ったんだけど、最初は英語だったんだよね。それでサビのところをハミングで歌ってた。「HOCHONO HOUSE」では、それを間奏に張り付けて使ったりしたよ。 ■ ゼミ生、未発表のデモを聴ける回を熱望 安部 「デモのカセットが残ってるよ」っておっしゃっているものもたくさんありますよね。「細野ゼミ」で未発表のデモを聴ける回が欲しい。 細野 そういうのはあるよ。「終わりの季節」の英語バージョンとか。 安部 それ、僕らにだけだったら聴かせてもらえたりしますか……? 細野 いいよ。 ハマ そういうテープ、国に頼んでデータにしたほうがいい(笑)。劣化しちゃうし。 細野 データにはしているんだよね。 安部 ではこのまま、「ハニー・ムーン」ついて。個人的には、聴いていると天竺みたいな世界をイメージしてしまうんです。歌詞だけじゃなく、曲の雰囲気もあってのことだと思うんですけど。細野さんはどういうイメージで作ったのかなって。 細野 あれは何に入れたんだっけ? 「トロピカル・ダンディー」か。あまり覚えてないな。ハネムーンという言葉は日本ではポピュラーでしょ? 新婚旅行って意味で。日本語では“蜜月”って訳するんだろうけど、僕のイメージでは、もうちょっと世界が広く、エキゾチックな感じ。エキゾチシズムに囚われていたからね。そういう言葉遊びもあったよね。 安部 その頃読んでた本とか、どこかの国の文化にハマっていたなどがあれば教えてほしいです。 細野 本よりもマンガばっかり読んでいたよ。 安部 なんのマンガですか? 細野 広げるね(笑)。何かな……「がきデカ」(※「週刊少年チャンピオン」で連載されていた山上たつひこによるギャグマンガ。1989年にアニメ化もされた)かな。全巻そろえてる。 安部 「がきデカ」ってなんですか? ハマくん知ってる? ハマ もちろん。ギャグマンガだね。名作ですけど、あなたの“細野晴臣さん像”、「がきデカ」を読むことによって、一気に訳がわからなくなる可能性もある(笑)。 細野 「ハニー・ムーン」と全然関係ない(笑)。 <後編に続く> ■ プロフィール □ 細野晴臣 1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2021年7月に、高橋幸宏とのエレクトロニカユニット・SKETCH SHOWのアルバム「audio sponge」「tronika」「LOOPHOLE」の12inchアナログをリリース。2023年5月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」が発売50周年を迎え、アナログ盤が再発された。2024年に活動55周年を迎えたことを記念して、アニバーサリープロジェクトが始動。 □ 安部勇磨 1990年東京生まれ。2014年に結成されたnever young beachのボーカリスト兼ギタリスト。2015年5月に1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」を発表し、7月には「FUJI ROCK FESTIVAL '15」に初出演。2016年に2ndアルバム「fam fam」をリリースし、各地のフェスやライブイベントに参加した。2017年にSPEEDSTAR RECORDSよりメジャーデビューアルバム「A GOOD TIME」を発表。日本のみならず、上海、北京、成都、深セン、杭州、台北、ソウル、バンコクなどアジア圏内でライブ活動も行い、海外での活動の場を広げている。2021年6月に自身初となるソロアルバム「Fantasia」を自主レーベル・Thaian Recordsより発表。2024年11月に2ndソロアルバム「Hotel New Yuma」をリリースした。 □ ハマ・オカモト 1991年東京生まれ。ロックバンドOKAMOTO'Sのベーシスト。中学生の頃にバンド活動を開始し、同級生とともにOKAMOTO'Sを結成。2010年5月に1stアルバム「10'S」を発表する。デビュー当時より国内外で精力的にライブ活動を展開しており、2023年1月にメンバーコラボレーションをテーマにしたアルバム「Flowers」を発表。2025年2月には10枚目のアルバム「4EVER」をリリースする。またベーシストとしてさまざまなミュージシャンのサポートをすることも多く、2020年5月にはムック本「BASS MAGAZINE SPECIAL FEATURE SERIES『2009-2019“ハマ・オカモト”とはなんだったのか?』」を上梓した。