「原(辰徳)さんに坊主頭をなでられ…」巨人で活躍した右腕はなぜ“うどん屋”に?「10代で一軍抜擢」「原監督に怒られた日」條辺剛が語る巨人時代
埼玉県上福岡駅近くの「讃岐うどん 條辺」。若くしてスター軍団の巨人で活躍した右腕は、なぜ“うどん”に魅せられ、15年以上続く人気店を切り盛りするようになったのか。14人の元プロ野球選手のセカンドキャリアに迫った『道を拓く 元プロ野球選手の転職』(扶桑社)より、條辺剛さん(元巨人)のエピソードを抜粋して紹介します。(全2回の1回目/後編へ) 【実際の写真】「長嶋監督とガッチリ握手、原監督のギラついた視線も…」巨人の選手から“うどん屋”に転身した條辺剛さん(43歳)の現役時代を見る
直球とフォークを武器に…10代で開幕一軍に抜擢
飛躍のときはプロ2年目に訪れた。当時、一軍ピッチングコーチであり、條辺と同じ徳島県阿南市出身の水野雄仁が口にした「何か落ちるボールがほしいな」というひと言が、彼にとっての福音となったのだ。 「2年目はファームでローテーションをしっかり守りたい。そんな思いだったんですけど、一軍キャンプに帯同することになって、水野さんから“落ちるボールをマスターしろ”と言われて、フォークボールを教わりました。当時はストレート、スライダー、緩いカーブ、そしてツーシーム系のシュートを投げていましたけど、このフォークがうまくハマってくれたんです」 人差し指と中指でボールを挟んで投じられるフォークは條辺の大きな手に、そして真上から投げ下ろすピッチングフォームには最適の変化球だった。ルーキーイヤーに身体作りに励み、球速も10キロ以上アップしていた。150キロを超えるストレートを身につけ、さらにフォークで面白いように空振りをとれるようになった。 長嶋の後を受け、この年から監督となっていた原辰徳からの期待も大きくなる。投手として、10代での開幕一軍切符は87(昭和62)年の桑田以来の快挙だった。 「長嶋さんは、畏れ多くて近寄りがたい存在でしたけど、原監督は兄貴的な雰囲気で選手サロンにいる時間も長くて、いろいろな選手と話すように意識していたようでした。監督もまだ40代前半でしたし、僕としてもすごく話しやすかったです」
「明日までに“いい頭”にしてこい」原辰徳の大目玉
長嶋が退任した後に行われた秋季キャンプでのことだった。條辺は監督就任が決まっていた原から大目玉を食らっている。 「1年目の秋、僕、パーマをあててキャンプに臨んだんです。ヒゲは禁止だということは聞いていたけど、髪型については何も言われていませんでした 。それで、初日のミーティングでいちばん前に座っていたら、いきなり原さんに呼ばれて、“明日までにお前の考えるいい頭にしてこい”って言われたんです」 原が口にした「いい頭」とは何か? 先輩に相談すると、誰もが「決まってるだろ」と言いながら、手に持ったバリカンで坊主頭にする仕草をした。 「次の休みの日に坊主にしました。そうしたら、原さんも“いいじゃないか~”と言ってくれて、“2~3キロは、ボールが速くなっているぞ! ”と、何度も坊主頭をなでられましたね(笑)」
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