憲政史上初の衆議院解散、首相だった松方正義の苦悩と決意…「最後の手段」同志につづった書簡
明治時代に首相を2度務め、憲政史上で初めて衆院を解散した松方正義(1835~1924年)の当時の心境をつづった書簡が、出身地・鹿児島県の県歴史・美術センター黎明館(鹿児島市)で展示されている。野党と対立して窮地に立たされ、同じ薩摩藩出身の首相経験者に「最後の手段」に踏み切る決意を明かしていた。松方の没後100年となる今年、衆院の解散も行われ、貴重な史料として注目を集めている。(関理一郎) 【写真】書簡で「最後之手段」と衆院解散を示唆した部分=鹿児島県歴史・美術センター黎明館提供(画像の一部を修整しています)
書簡は、11月4日まで同館で開催中の企画特別展「没後100年 松方正義―郷士から総理大臣へ―」で公開されている。
松方が初めて首相に就任したのは1891年5月。政党と一線を画す「超然内閣」を組織し、帝国議会で野党と対立した。同12月22日、軍事予算を巡る論戦の中、薩摩藩出身の樺山資紀海軍大臣が演説で、国家を主導してきたのは薩摩・長州藩だと主張すると、激しい反発を招いた。
展示中の書簡は、その日の夜、薩摩藩出身者の中心的存在で第2代首相を務めた黒田清隆に宛てて書いたものだ。議会運営が切迫した状況を訴え、「いずれ最後の手段に運ばなくては済まない」と解散を示唆。早朝に閣議を開くことを伝え、その前に黒田との面会を求める記述もある。「今日」を「昨日」に、「明日」を「今日」に修正した跡も見られ、書いている間に日付が変わり、書き換えたとみられる。
松方は同25日、首相の専権事項とされる衆院の解散権を行使し、92年2月に総選挙が行われた。選挙後も議会運営に苦しみ、同年夏、松方内閣は総辞職した。
今月22日、神戸市から帰省中に同館を訪れて書簡を目にした来館者(20)は「丁寧な言葉遣いの中に(政権運営への)苦悩を感じた」と話した。同館の崎山健文・主任学芸専門員は「誰も経験したことのない衆院の解散を行った時の緊迫感を感じてもらいたい」としている。
◆松方正義=明治時代の代表的な財政家で、1881年に大蔵卿、85年に初代蔵相に就任した後、91年から第4代首相、96年から第6代首相を務めた。大蔵卿時代に日本銀行を設立するなど日本の資本主義の発展に尽力した。