【五輪卓球の歴史エピソード】卓球は1988年ソウルで念願の五輪競技に。ソウルで中国が世界チャンピオンを代表から外した
中国が現役の世界チャンピオンを五輪代表から外したのには驚いた
オリンピックは長くアマチュアの最高の大会と位置づけられ、ヨーロッパに多くのプロ選手がいた卓球は1981年に五輪参加が決まり、1988年ソウル五輪が記念すべき1回目のオリンピックとなった。これは1980年にIOC(国際オリンピック委員会)会長に就任したサマランチ氏がプロへの門戸を広げ、実質的な世界最高峰の大会開催を希望し、商業化を推進した結果と言える。 また、五輪競技になるためにはすべての大陸で普及していることも重要な条件で、卓球は見事に合致していた。 卓球にとって五輪競技になるという大きな夢はこの大会で達成され、この大会を観戦に来ていたサマランチ会長と、ITTF(国際卓球連盟)の荻村伊智朗会長の間で、卓球のカラー化(卓球台・フロアコート・ボール)が話し合われたと言われている。 23競技のひとつに選ばれた卓球は男女シングルスと男女ダブルスの4種目。世界を席巻していた中国にとってはまさに国技として威信をかけた戦いとなった。勝利が絶対命令となる中、大会直前で現役の世界チャンピオンの何智麗(のちの日本の小山ちれ)を代表から外し、新人の陳静を起用した。 これは1986年のアジア競技大会がソウルで開催され、強烈な地元の応援の中、何智麗が団体戦で負けたことで中国首脳陣が「オリンピックでは勝てない」と判断したためと言われている。この頃から、中国は五輪代表を誰にするかをコントロールできていた。五輪への参加権利は選手個人ではなく、国が有する権利と考えていたのだ。 特に何智麗は自分が五輪代表から外されたことを公然と地元新聞で批判したために、中国の国家チームから外された。当時も今も一選手が協会を批判することはご法度。 その後、女子シングルスで優勝した陳静は低迷し、台湾(チャイニーズタイペイ)に籍を変え、何智麗は日本人に帰化し、小山ちれとなった。このソウル五輪は二人のトップ選手の人生を変えたことになる。