追悼・小林邦昭…記録から見た初代タイガーとのライバル関係 22年目の握手“新日本でたった一度だけの超プレミアムタッグ”【週刊プロレス】
9月9日に亡くなった“虎ハンター”小林邦昭の訃報は各メディアが伝えた。現役を退いて24年。五輪出場などアマチュアスポーツで実績を残したわけでもないのに、これほどに大きく報じられたのは、それだけ初代タイガーマスクの覆面を破いたことが衝撃的だったことを物語っている。それは「太陽にほえろ!」(日本テレビ系)、「3年B組金八先生」(TBS系)といった視聴率20%を超える番組が裏番組にありながらも、「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日系)の生中継がそれを上回る数字をはじき出していたからである。各報道ではタイガーマスクとのライバル闘争が紹介されていた。ここでは両者の対戦記録からライバル物語を振り返ってみる。(文集敬称略) 【写真】ジャイアント馬場の前で彼女の写真を公開した2代目タイガーマスク
小林邦昭が長野県小諸市から上京して新日本プロレスに入門したのは。旗揚げ直後の1972年10月。そして翌73年2月1日、愛媛・西条市体育館で栗栖正伸を相手に本格デビューする。 邦昭に遅れること3年。75年7月、山口県下関市出身の少年が新日本に入門した。のちにタイガーマスクに変身する佐山聡である。身長は170cmと低く、当時の規定に達していなかったものの、その類まれな運動神経を見込まれて入門が認められた。そして翌76年5月28日、東京・後楽園ホールにおいて魁勝司(北沢幹之)を相手にデビューを果たす。 両者の初対決は76年6月11日、岩手県宮古市。邦昭が先輩の貫禄を見せて勝利した。先輩のカベは厚く、その後、何度となくシングル対決が組まれたが、邦昭は白星を譲らなかった。77年5月7日(佐賀・唐津市体育館)、佐山からすれば36戦目にして引き分けに持ち込むのがやっとだった。 その後、何度か引き分けを挟み、同年5月22日(群馬・群馬町公民館=現高崎市)、41度目の対戦にしてようやく佐山が勝利する。とはいえ、その後も邦昭が勝利を重ね、78年5月に佐山がメキシコ遠征に出発するまで、邦昭が敗れたのは5回のみだ(邦昭の49勝5敗16分)。 特筆すべきは、若手時代タッグで対戦したのは1度のみ。コンビを組んだことすらない。初めて2人が同じコーナーに立ったのは、メキシコ遠征時代の80年7月13日(現地時間)、グラン浜田を加えたトリオだった。当時、邦昭はUWAを、佐山はEMLL(現CMLL)を主戦場にしていたこともあって、メキシコでも3度しかタッグを組んでいない(いずれも会場はパラシオ・デ・ロス・デポルテス)。ちなみに佐山がイギリスに渡る前の最終試合(80年9月7日=同)で、アンヘル・ブランコを加えたトリオを組んでいる。 凱旋帰国後は“虎ハンター”としてタイガーマスクをつけ狙った。しかし83年8月のタイガー電撃引退によって、結果的に虎を射止めることなく両者の関係は途絶えてしまった(この間の対戦成績は邦昭の0勝7敗)。 その後、佐山は現役復帰。邦昭とのシングルマッチは何度も組まれたが、日本で初めてタッグを組んだのは1997年8月31日、横浜アリーナ。実に出会ってから22年目のこと。結果的に新日本マットで同じコーナーに立ったのはこの1回限りだった。その後、2013年1月13日のレジェンド・ザ・プロレスリング後楽園ホール大会で組んでいる。この時は初代タイガーと大仁田厚の初対決が話題となった。 常に対角線に立って向かい合っていた小林邦昭と佐山聡。リングを下りれば仲のいい2人だったが、これほどまでのライバル関係はほかに見当たらない。 橋爪哲也
週刊プロレス編集部