勝手にライバル認定した「清少納言」を完膚なきまでに酷評した「紫式部」。そんなふたりの関係とは⁉
「いとおかし」で有名な清少納言の『枕草子』。紫式部に酷評されたこの作品は本当に、それほどひどい作品だったのだろうか。 皆さん、清少納言はご存じだろうか。「春はあけぼの……」で始まる枕草子の冒頭部分を学校で暗記したという人も多いのではないだろうか。 枕草子は、清少納言が書いた随筆で、一条天皇の中宮定子に仕えていた当時に、身の回りで起きた今風に言えば「いいね!」という出来事を「いとおかし」という言葉とともに紹介している部分が有名だ。これを紫式部は、『紫式部日記』と後世呼ばれることになった日記の中で「おかしい、おかしいって作者の頭が一番おかしいんじゃないの」と評し、高い教養をひけらかし、なんでも知っていると知ったかぶりをする女だと書くなど「何もそこまでいわなくても」と言いたくなるほど清少納言のことをこき下ろしているのだ。 枕草子は、紫式部が酷評するほどひどい内容のものなのだろうか。「いいね!」と思ったものを書き留めた部分ばかりが注目されているが、それだけならば、紫式部が書く通り稚拙な作品なのかもしれない。それだけならば、現代にまで読み継がれる古典とはならない。 女性だからと見下す男性を、中国の故事を引用してやり込める。当時の女性は、男性が使用している漢字や、中国の古典は身につけなくてもよい教養であったのだが、これを身に着けていた清少納言ならではのエピソードといえる。また、「歌は苦手だから歌は送らないで」という元夫に意趣返しのつもりかあえて歌を送るなど、いつの時代の女性でも溜飲を下げるような描写がある。 このように男性をやり込めるだけならば、いやな女で終わってしまうかもしれない。しかし、夜を共にした恋人が、さっさと衣服を整えて帰り支度してしまうよりも、時間までずっとかまっていてほしいと願ったり、恋人が他人に褒められたということを聞いた時にうれしいと感じたりするなど男性から見るとかわいいと思わせる一面もある。そのほか、今読んでも「そう、そう」と読者が共感できることが多く、全体に前向きなので、読んでいて楽しくなる作品でもある。 では、なぜ紫式部がこれほどに清少納言のことを悪く言わなければならなったのだろうか。 清少納言と紫式部は、ライバルだとよく言われるが、寛弘2年(1005)、紫式部が藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘彰子に仕え宮中に上がった時には、すでに清少納言はそこにいなかった。主人の定子が長保2年(1000)に亡くなると、その翌年清少納言は身を引いてしまったからだ。そして、清少納言は歴史の表舞台から姿を消してしまった。 偉大な人の後に現れたよく似た才能の持ち主のことを「第二のだれそれ」とか「だれそれ以来の天才」などと評することがある。 実は、紫式部も清少納言と同様に漢字を読むことができ、中国の古典にも精通していた。その才能は父親が「この子が男子であったら」と嘆息したほどであったという。 女性なのに漢字を使いこなし、中国の古典に精通している才女として2人は重なる部分が多かっただろう。もしかしたら、紫式部は、宮中で「第二の清少納言」と呼ばれ、彼女と比べられていたのかもしれない。それも一度ではないとしたら、「あんな女の書いた文章のどこがいいの!」と酷評したくもなるのではないだろうか。
加唐 亜紀