世界的な美術家・篠田桃紅が「チャンスは作ろうとしても作れない」と確信する「納得の理由」
「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。 『これおしまい』連載第7回 『火の海となった街を襲う「更なる悲劇」…東京大空襲を生き延びた美術家・篠田桃紅が語る「ヤバすぎる」体験談』より続く
戦後に兆したチャンス
東京に戻ってからというもの、彼女は精力的に創作活動に励みます。作品が評価され、展示の機会が増えていきました。1954年に個展を開くと、作品は広く海外にも知られるようになります。海外、国内の美術館への出展依頼が相次ぎます。 敗戦後の日本には、アートの好きなGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の将校や兵士たちもいました。 「彼らはよくアーティストの家に遊びに行っていました。音楽好きな将校らは音楽家の家に行ったのでしょう。私のアトリエにもたくさんの外国人が来ましたよ。文化に対して関心の高い人たちでしたね。 私の展覧会に来て、大きな作品を次から次へと予約していった。『あなたの絵はアメリカにはないものだ。ぜひあなたの絵を自国に紹介したい。私はこの任務を終えてアメリカに帰ったら、あなたを呼ぶからぜひ来てください』と口々に言ってくれた。 でも、いざ帰国して呼ぼうとすると、大変なんですよ。費用は全部あちら持ちの招待で、彼らの年収、銀行預金など、財力があることをアメリカ当局に証明しなければならない。そして、日本には外貨などありませんでしたから、私の往復の飛行機代と2ヵ月間の滞在費として、2千ドルを日本に送金しなくてはならない。 米ドルが送られてこないことには、外務省は絶対にパスポートを発行しませんでした。当時、大学を出た人の初任給が月12,000円の時代よ。海外に行くことができたのは、外務省と海外に支店を持つ商社ぐらい。アーティストが1人で渡米するなんてことは不可能でした。