「柱稽古編」最終話で産屋敷耀哉がみせた“狂気” 妻子もろとも“自爆”した行為は「正義」といえるのか
■鬼殺隊に「あって」、無惨には「ないもの」 耀哉の狂気の自爆に対して、無惨が「(耀哉の)妻と子供は承知の上だったのか?」と思う場面があるのだが、それを受けて、一部からは「無惨の方が人間らしい感情があり、耀哉の方が“異常者”だ」という声が上がった。しかし、本当にそうだろうか。 人が誰かのためにみずから命を捨てるには、深い深い愛情が必要だ。愛する人が殺害された時、時間がどれだけ経過しても、その怒りを持ち続けるためには、亡くした人への「愛」がいる。耀哉は鬼の被害を終わらせるという信念を貫きとおし、彼の家族は愛のために耀哉の作戦決行に力を貸した。万人には理解されないかもしれないが、そこに「人間らしい愛」があったことに疑いはないだろう。 かつて人間だった鬼舞辻無惨は、「人間は、愛する人をなかなか傷つけることができない」ということを“知って”はいた。しかし、その先にある感情を、無惨は知らないのだ。他人の命を踏みつける側にいる鬼の無惨は、愛する者を永遠に失ってしまった者の悲しみと怒りが分からない。 この「人間らしさ」については、耀哉の自爆によって、戦闘態勢に入った炭治郎と柱たちの表情を見てみると、よく理解できる。彼らの顔に浮かぶのは残忍さではなく、途方もない悲しみだった。取り戻すことができない失われた命への悔しさを、わが身の不幸として感じている。 ここから先、鬼舞辻無惨は、鬼殺隊の執念と怒り、耀哉が残した狂気を一身に受けることになる。鬼が強いか、鬼殺隊の「想い」がより強いのか。映画3部作で「無限城編」がどのように描かれるのか、今から待ち遠しい。 ◎植朗子(うえ・あきこ) 伝承文学研究者。神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート学術研究員。1977年和歌山県生まれ。神戸大学大学院国際文化学研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『鬼滅夜話』(扶桑社)、『キャラクターたちの運命論』(平凡社新書)、共著に『はじまりが見える世界の神話』(創元社)など。
植朗子