<主権回復の日>講和条約発効で主権回復と呼べるのか?
「主権回復の日」は1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を記念するものですが、この条約発効をもって日本の主権回復とすることに疑問の声もあります。 講和条約は米サンフランシスコで署名されました。正式には「日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)」といいます。この条約により、連合国は正式に日本の主権を承認しました。ただし領土に関しては、日本がこれを放棄したり、米国の信託統治に移管したりするという内容が含まれていました。 たとえば南西諸島(琉球諸島・大東諸島など)や南方諸島(小笠原諸島・西之島など)については、条約の第3条に「アメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案に同意」という内容が記されています。 つまり、講和条約の発効した日をもって「主権回復の日」とした場合、琉球諸島の沖縄をはじめ、米国の統治下に置かれた島々は含まれていないことになるのです。 米国は沖縄を統治する中で、軍の演習地や補給用地などの用地として、集落と農地を強制的に接収しました。沖縄の米軍基地が拡張されていった背景には、東西冷戦という当時の国際情勢も反映されていました。米国をはじめとする西側諸国と、ソ連(当時)や中国など東側諸国との対立は、朝鮮戦争(1950‐53)、ベトナム戦争(1960‐75)などの形で軍事衝突に発展します。そのため、沖縄米軍基地は東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地として、またベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性を増していきました。 しかし、ベトナム戦争が終結し、70年代に入って米ソの間でデタント(緊張緩和)が進んだ後も、米軍基地は沖縄県内に維持され、現在に至っています。 一方、講和条約には「日本が千島列島を放棄する」という内容も含まれていました。当時の日本政府にとっては条約を締結して日本が主権を回復することが最優先課題でしたが、北海道民にとっては「放棄する必要のない千島列島を放棄した」という思いが残っています。また、「日本が放棄した千島列島には択捉、国後、色丹、歯舞群島の島々が含まれるか否か」という点が、北方領土問題の争点ともなっています。 このように、日本外交に多くの課題を残したサンフランシスコ条約の発効をもって「主権回復の日」と呼ぶことには疑問の声もあり、その式典を行うなどもってのほかだと反対する人もいるのです。