近鉄が奈良に築き上げた「王国」 日本一の路線網の100年
2024年3月、奈良市と大阪を結ぶJR西日本の通勤特急「らくラクやまと」の運行が始まり、鉄道ファンをざわつかせた。奈良市を通る定期特急は57年ぶり。JRを除けば、日本一の路線網を誇る近畿日本鉄道の「王国」と呼ばれる奈良ならではの話題だった。 県内初の鉄道は1890年、奈良―王寺(現JR大和路線)に開業。2年後に大和川沿いに大阪とつながる。当時、鉄道が大歓迎されたわけではなかった。一例を挙げると、大和川南側にある王寺駅は当時、田畑が広がる場所だった。当初、線路は川の北側を走る計画だったが、住民が「都会の悪風で混乱する」と猛反対したという。 「昭和」に入った1931(昭和6)年、奈良・大阪府県境の地滑り地帯「亀の瀬」で大規模な地滑りが発生。川がせき止められ、奈良盆地が浸水する――。危機回避の工事で川の北側を走っていた線路の一部を南側に移した。 この地滑りで潰れたとみられていた「亀の瀬トンネル」の残存が2008年に確認される。丁寧なれんが積みの貴重な明治期の鉄道遺産で、現在は壁面をスクリーンに見立てたプロジェクションマッピングも行われ、観光資源として活用されている。24年には新資料室も整備された。 ◇ 一方、近鉄の前身・大阪電気軌道(大軌)が生駒山にトンネルを通し、奈良―大阪に鉄道を敷いたのは1914年。大阪からの移動時間を大幅に短縮し、人の流れを変えた。「蒸気機関車が主流の鉄道輸送で、複線でしかも架線付きの大トンネルを掘るのは50年、100年先を見据えた英断だった」。元近鉄広報マンで、天理市にある「なら歴史芸術文化村」の総括責任者、福原稔浩さん(68)は先見性を評価する。 大軌の次の一手は、法隆寺(現JR)と天理を結ぶ天理軽便鉄道の買収。21年、現奈良線の大和西大寺から南に郡山(大和郡山)まで鉄道(現橿原線)が通り、翌年には軽便鉄道の駅があった平端まで延びた。大阪から天理まで直通し、天理教信者の足になる。23年には橿原神宮前まで開通。神武天皇をまつる橿原神宮は「紀元二千六百年奉祝紀元節大祭」が40(昭和15)年に挙行されるなど、多くの参拝者が訪れた。 また、系列会社が18年に日本初のケーブルカーを生駒駅から生駒山・宝山寺への参拝者向けに開業。22年には大軌と合併し、29(昭和4)年の生駒山上遊園地開業に合わせ、山上駅まで全通した。 現大阪線もこの時期、橿原、桜井に延伸し、ライバルとの争いに勝って観光地・吉野への鉄路を確保。関連会社が神社の頂点・伊勢神宮への夢の日帰り参拝実現に向け、三重県に進撃する。現南大阪線なども手中に収め、終戦前年の44(昭和19)年に「近畿日本鉄道」が誕生した。 ◇ 古代史の中心地だった奈良。鉄道への理解が進んだ時代、近鉄は有名な観光地や社寺を目指して一気に鉄道網を整備し、多くの利用者を獲得。「王国」を築き上げた。 戦後は、生駒市や奈良市西部などの奈良線や大阪線沿線で宅地開発が進み、奈良県の発展に寄与した。人口急増期には、電車に乗れない「積み残しも珍しくなかった」(福原さん)。けいはんな線が2006年に開通。09年に阪神との相互直通運転が始まる。 線路の点検・保守を万全に安全を確保し、たとえ台風の時でも可能な限り電車を走らせる。そんな熱い思いを福原さんは「近鉄魂」と表現する。人口減少、過疎高齢化の時代、長い路線網ゆえの困難は少なくない。福原さんは「大きなポイント(分岐点)に立っているとは思う。近鉄魂で新たな50年、100年先に向け未来を切り開いてほしい」と話している。【熊谷仁志】