<夢への軌跡~22年センバツ丹生~>/中 お兄さん監督、一体感醸成 /福井
平成を目前に控えた昭和63(1988)年。丹生は秋の北信越地区大会でベスト4に入り、翌春のセンバツ出場候補の補欠校となった。甲子園まであと一歩に迫るまでの強豪校に育てたのは79年から監督を務めた五島巌さん(80)だった。 五島さんは日々の授業や部活動の合間を縫って地元丹生郡の中学に足を運び、軟式野球に励む中学生らに「丹生に入り硬式野球で一緒に大会に出ないか」と声をかけて回った。地元の有力な選手の多くは福井工大福井、北陸といった県内の有力私立校に進学する。そうした中、有力選手に及ばないものの、やる気は負けない、といった選手らを丹生に集め、根気強く丁寧に指導していった。 98年夏に五島さんが退任後、監督を引き継いだのが、現在は足羽高で野球部顧問を務める加藤洋昭さん(48)だ。当時は敦賀気比が台頭してきたほか、県内で学区制が廃止となり、丹生郡の中学生が福井商など県内の有力な県立高にも進学できるようになり、有力選手の確保がさらに厳しくなった。そうした中でも加藤さんは、五島さんと同様に地元の中学校を回り、熱意ある若者の発掘を続けていった。 着任当時26歳という若さだった加藤さん。選手と接する中で特に意識したのは、若さを生かしてより近い距離感でコミュニケーションを取ることだった。地元出身者が数多く通う丹生の生徒は、海寄りの旧越前町などと山寄りの旧朝日町などに大別され、出身地域によって方言が異なる。加藤さんによると、言葉遣いの違いで乱暴に聞こえるなどの誤解が生じ、それが選手間の対立につながるケースが少なくなかったという。 対立を上から抑えるのではなく、選手と同じような立ち位置から誤解の解消に努める。そうするために、加藤さんは日々の食事や遠征先への合宿時などに、趣味や恋愛といった野球以外の話題で積極的に会話した。「ささいな話ができるお兄さん」として、選手の間を取り持ち、チームとしての一体感を作っていった。 一方、「対立」は悪いことだけではなかった。部内での競争を後押ししたのだ。加藤さんも練習で、バッティングの平均飛距離を競わせるなど、選手の競争心を意図的にあおった。「練習中に本気でぶつかっても、根っこの部分では信頼し合っている。そういう関係作りが自分なりにできたのでは」と振り返る。そのかいもあり、県大会でベスト4に進出するなど、強豪ひしめく県内で結果を出していった。 現監督の春木竜一さん(49)は加藤さんと同年代で、金沢大硬式野球部ではチームメートだった。加藤さんは「学区制に加えて少子化もある。より厳しい条件下での甲子園出場はとてもうれしく、応援している」と“母校”の躍進を期待している。【大原翔】