<錬磨の22年>京都国際・センバツへ/上 部員12人からの出発 公式戦初戦は0-34の大敗 /京都
京都国際のセンバツ出場が決まった29日午後、京都市東山区の同校グラウンドでは、ナインたちが春夏通じて初めて聖地の土を踏む喜びに浸っていた。「甲子園に出場できるようになるのは、ずっと先だと思っていた」。同校事務長の岡田孝雄さん(64)は感慨深げな表情を浮かべた。岡田さんがそう語るのは、22年前の「あの日」を知っているからだ。 1999年7月16日、第81回全国高校野球選手権京都大会の1回戦。京都国際の前身・京都韓国学園が外国人学校として初めて日本高野連硬式の部に加盟し、迎えた公式戦初戦だった。相手は98年夏の甲子園で準優勝していた京都成章。1回に7点を奪われると相手の猛攻を許し、本塁打3本など25長短打を浴びて0―34と五回コールド負け。当時、京都成章の選手として三塁打を放った、京都国際の小牧憲継・現監督(37)も「とにかく弱く、打てば安打になった」と振り返る。 硬式野球部の創部は同4月。全校生徒はわずか32人だった。「学校に何か特色を」と野球部が作られたが、集まった部員は12人。中には硬球を初めて握る部員もいた。「当時の練習は、あまり厳しくなかった。和気あいあいとした雰囲気だった」と当時、事務員だった岡田さんが語る。人手が足りないため、岡田さんがノックなど練習を手伝うこともあったという。 同5月、日本高野連への加盟が認められる。校長室で連絡を待っていた部員たちは、知らせを聞いて「よっしゃー!」と喜んだという。「部をやめられたら困る、という部分もあって」(岡田さん)野球部でよくある、坊主頭にするというような決まりも無かった。手探りの草創期は、苦い思いをしながらも楽しい時期でもあった。 その後、野球部は徐々に実力を付けてゆく。2年後の2001年夏の京都大会で公式戦初勝利を飾ると、03年夏には京都大会でベスト8進出。08年には申成鉉(シンソンヒョン)選手(現韓国・斗山ベアーズ)が広島にドラフト4位で指名され、初のプロ野球選手が誕生した。19年夏の京都大会では決勝進出を果たし、甲子園が目の前に迫ったが、最後はサヨナラ負け。聖地への切符が届かずにいた。 今チームは20年秋の近畿大会で初のベスト4入りを果たすなど、実力を磨いてきた。小牧監督は「1年生はマイペースな子が多く、2年生は悔しい思いをしている先輩の後ろ姿を見てきたので『自分たちでやってやろう』という思いは強い」と語る。岡田さんは「チームは試合終盤に勝負強さが光る。甲子園でも粘り強く戦ってほしい」と、22年後の頼もしきナインにエールを送った。 ◇ ◇ 京都国際は建学以来、教育目標の一つに「練磨(れんま)」を掲げてきた。創部から22年、地道に練習を積み重ね、甲子園出場を現実にしたチームの今を追った。【中島怜子】 〔京都版〕