「一度も無罪判決を書いたことがない」裁判官がいるという「驚愕の事実」…なぜ刑事系裁判官は無罪を出すのに躊躇するのか?
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏(明治大学教授)の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 【写真】なぜ日本では「冤罪」が後を絶たないのか? 「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視…なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?『現代日本人の法意識』では、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事は、〈なぜ日本では「冤罪」が後を絶たないのか?…冤罪を生みやすい「日本の刑事司法システム」の「構造的な問題」〉につづく、刊行インタビュー第4回です。 Q 日本の刑事司法は伝統的に精密で慎重な刑事訴訟手続が取られている、「精密司法」なのだ、といわれます。しかし、一皮むいてみれば、証拠捏造、偽証強要、検事の作文による供述調書などが横行し、精密司法は壮大な虚構という印象があります。実際、現役の厚労省官僚だった村木厚子氏が無罪となった郵便不正事件(2004年)は、検察官による証拠の改竄や虚偽供述誘導のオンパレードだったと聞いています。 「精密司法」という言葉は皮肉だと思いますね。 「手術は成功しました。患者は死にました」というブラックジョークがありますが、それに似たところがあります。 たとえ、手続が精密であっても、刑事訴訟法の解釈学が整っていても、推定無罪の原則、人身拘束に関する合理的で憲法に適合したルールの確立、違法収集証拠の排除等の事柄が全うされなければ、その国の刑事司法が本当の意味で洗練されているとはいえません。精密司法の結果が冤罪や人権の軽視であれば、何のための精密司法かということになってしまうでしょう。 『現代日本の法意識』の第9章にも記したとおり、訴訟法の基本原則でもある「手続的正義の原理」は、日本では「法の支配」以上に知られていませんが、やはり、近代法の基盤にある原則なのです。結果の妥当性だけではなく、そこに至るための手続それ自体が適切、透明なものでなければならないことを意味します。 手続的正義を実現するために、訴訟法は、各種の手続保障を当事者に与えています。手続的正義が全うされてこそ、真に妥当な結果(実体的正義)も得られるのです。たとえば、刑事手続では、先に述べた人身拘束に関する合理的で憲法に適合したルールの確立や違法収集証拠の排除等の事柄が、民事手続では、双方対席の場で相手方の主張や証拠に反論する機会の保障が、手続的正義の中核を成すといえます。 しかし、日本の刑事手続では右のような事柄はないがしろにされていますし、民事訴訟や家裁の手続についても、裁判官が当事者の一方ずつと行う和解(そこでなされる心証開示、証拠評価についての議論を、他方の当事者は知りえません)が何の疑問ももたれない慣行となっているなど、同様の問題はあります。 Q 問題の大きな捜査や杜撰な捜査が行われているにもかかわらず、日本の刑事事件の有罪率は99.9から99.8パーセント(地裁事件統計)ときわめて高い数字になっています。ほぼ100%有罪です。瀬木さんは、この数字をどうお考えになりますか。 そのような日本の有罪率は、日本の検察の優秀さを示すものというよりはむしろ、日本の刑事司法の異常さや問題を示すものであり、今ではようやく社会一般の認識もそうなりつつあると思います。たとえば、有罪率100パーセントなどといったことになれば、それはもはや専制主義国家の暗黒裁判でしょうからね。 また、高い有罪率への固執は、本来であれば起訴が相当な事件を不起訴にする弊害も伴い、特に裁判員裁判対象事件については、この弊害を指摘する声が法律家にも多いのです。しかし、閉じた組織である検察は、こうした外部の声にはきわめて鈍感であり、無謬性に強迫的にこだわることをやめられないのですね。 先の、袴田事件再審無罪判決に関する検事総長の異例の談話なども、そうした無謬性へのこだわりをみせていて、日本の検察ならではのものという印象が強いです。 Q さっきちらっとお聞きして「聞き違いかな」と思ったのですが、刑事系裁判官のなかには、一度も無罪判決を書いたことがない裁判官もいるって本当なのでしょうか? 実は、そういう話を以前にも聞いたことはあるものの、私も、さすがにそれは「都市伝説」ではないかと思っていたのですが。 私もそう思いたいところですが、都市伝説ではありません。 先ほどふれた、約30件の無罪判決を確定させた木谷明元裁判官から私がじかにお聴きし、『現代日本人の法意識』への引用の許可もいただいた言葉をあげてみましょう。 「かつての刑事裁判長には、『被告人は平気で嘘をつく』、『検事がそんな変なことをするはずがないだろう』、あるいは、『国民が皆有罪と信じている被告人をなぜ裁判所だけが無罪とすることができるんだ』などといった信じられない発言を、合議等で堂々とする人も多かったのです。また、今でも、そういう考えをもっている人は決して少なくないと思います。もっとも、少なくとも、裁判員裁判では、そうした発言を合議の場ですることだけは、できなくなったようですね。また、無罪判決を一度も出していない刑事裁判官が一定の割合でいるのも事実です」 Q 良識派の元刑事系裁判官から発せられた言葉ですから、信用せざるをえませんね。貴重で重い、しかし驚くべき証言だと思います。 私自身が直接に経験したところでも、かつての刑事系裁判官には、「被告人の争い方が悪かった場合には有罪判決の量刑を重くする」という考え方をもつ人がかなりいました。今でも、その傾向はあるかもしれません。 しかし、被告人には争う自由があるし、「争い方が悪いかどうか」の判断は相当に裁判官の主観の問題であることを考えると、裁判官の客観性、中立性という観点から問題ではないかと思ったものです。 さらに、実刑と執行猶予の選択において、世論の中の厳罰主義的な部分に沿い、平等・公平・公正の原則に反する「見せしめ、一罰百戒」的な志向が強く出やすいことについては、私を含め民事系裁判官のかなりの部分が、違和感を抱いていました。 日本では刑事事件のほとんどが有罪判決となることもあってか、刑事系裁判官の思考パターンは、さまざまな側面で検察官の思考パターンにシンクロナイズしがちであり、一方、検察や警察が間違いを犯すかもしれないという視点にはきわめて乏しいのです。 刑事系裁判官の多数派にとっては、「疑わしきは罰せず」はお題目で、そもそも判断に当たっての葛藤や逡巡があまりみられず、思考停止しているような印象さえ受ける場合があります。木谷氏も言われるとおり、無罪判決を一度も出していない刑事系裁判官さえ一定の割合で存在するのですから。 全体として、刑事系裁判官は、社会から隔離された司法官僚裁判官集団の中でも「もう一重隔離された人々」という印象が強いのです。 Q なぜ、刑事系裁判官は、無罪判決を出すことにそこまで躊躇するのでしょうか? どうしても理解しにくいのですが。 これは、私にも未だによくはわからないのです。木谷さんさえよくわからないと言われるのですから。しかし、可能な限りであえて分析、推測すれば、以下のようになります。 第一に考えられる理由としては、(1)「最高裁に対する忖度。無罪判決がキャリアにおいて不利にはたらく可能性」があるでしょう。しかし、それだけでは説明しにくい根深いものも感じるのです。加えるとすれば、次のような理由が挙げられるかと思います。 (2)刑事訴訟は民事訴訟ほどヴァリエーションがなく、訴訟指揮や判決についても高度な法的知識が要求される度合は、一般的にいえば小さい(むしろ、陪審員のような普通の市民のコモンセンスが生きる領域である)。そのため、裁判官が、専門家としての自信、自負をもちにくい。 (3)日本の裁判官には、近世以前から、また戦前から引き継がれた行政優位の法文化・伝統の下で、国家や政治・行政の権力チェックをためらう傾向が強く、民事関係では行政訴訟やいわゆる憲法訴訟にその傾向が顕著だが、国家の直接的な権力作用である刑事訴訟については、その傾向が一層強い(刑事訴訟では、日本の裁判官の「司法官僚」的性格が、治安維持第一、有罪推定という方向で強く表れやすい)。 (4)検察は一体として事実上の強大な権力をもっており、表面上は裁判官を立てていても現実にはあなどっている傾向がある。個々ばらばらの裁判官は、比較すれば無力で、検察官に堂々と対抗してゆくことのできる勇気と実力のある人が少ない。 (5)刑事系裁判官は世論の影響を受けやすく、特にマスメディアによって醸成される検察・警察寄りのそれには弱い。 以上をまとめると、刑事裁判官は、世間からは司法権力の象徴のように思われ、法廷でも表面的には民事や家裁の場合より尊重されているように見えますが、現実には、その専門家としての精神的基盤に、弱い、もろい部分のあることが、問題の根本原因ではないかという気がします。 Q 実務と理論、法と社会を知り尽くした瀬木さんならではの詳細な分析で、納得せざるをえないのですが、それでいいのだろうかという疑問も深く感じます。 日本の刑事司法は中世並みという言葉を何度か聞いたことがありますが、言いえて妙だと思います。 国連の拷問禁止委員会でアフリカの委員から「日本の司法は中世並み」という趣旨の指摘を受けた日本の「人権人道大使」が、苦笑を押し殺す人々に向かって、「シャラップ」と口走ってひんしゅくを買った事件(2013年)ですね。 ここで問題なのは、日本の刑事司法の先のような状況だけではないのです。検察、警察を始めとする刑事司法関係者たちの多くが、この大使同様、「日本の刑事司法の建前と、実態・本音の間の目もくらむような裂け目、溝」、「表の法意識と裏の法意識の明確な二重基準(ダブルスタンダード)」を少しも意識していないことも、それに劣らない大きな問題なのです。これは、まさに、「現代日本人の法意識」の一角を成す問題なのです。 Q うーん。突き詰めて考えると、私たち国民の刑事司法や冤罪に対する法意識もまた、お粗末なものなのかもしれませんね。 刑事司法をめぐる日本の現状をみる限り、ごく一般的、平均的な日本人の冤罪に関する法意識は、誰もそれを明示的に口にはせずとも、あえて意識の高みに引き上げて言葉を与えるなら、次のようなものなのではないでしょうか。 「よくはわからないが、日本の刑事司法に問題があるとしても、冤罪はまれなことなのではないか。それに、冤罪被害者はお気の毒とは思うものの、やはり、犯罪がきちんと取り締まられ、犯罪者が確実に逮捕、処罰されることのほうが、より重要なのではないだろうか」 こうしてあからさまに言語化されたものを読むと、不快に感じる方々もいらっしゃるかもしれません。私自身、私の疑念が杞憂(きゆう)であってくれればと思います。 でも、現実をみれば、『現代日本人の法意識』で論じたことからも明らかなとおり、日本は、今ではもはや、刑事司法、刑事訴訟手続の適正に関しては、「後進国」であることが否定できなくなりつつあります。それは、おそらく、動かしにくい「事実」でしょう。日本の刑事法学が「学問」としては洗練されているとしても、右の「事実」自体が変わるわけではありません。また、そのような刑事司法の状況が、「ムラ社会の病理」の一端であり、「日本社会の中の『前近代的』と評価されても仕方のない部分」であることについても、議論の余地は小さいと考えます。 そして、そのことについては、法律家、法学者である私はもちろんですが、日本人の一人一人にも、市民として、一定の責任はあるでしょう。 * さらに〈ベテラン裁判官「痴漢冤罪で無罪はほぼ出ない」…検察の主張を鵜呑みにする「裁判所のヤバすぎる内部事情」〉では、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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