今も昔も背番号は選手の顔。イチローのように大きな背番号でもピタリとはまる選手がまた見たい【張本勲の喝!!】
7番が欲しかったが10番に愛着が湧いた
背番号7を背負った豊田さんはあこがれの存在だった
プロ野球選手にとって背番号というのは一つの“顔”だ。野球ファンの子どもたちに“名前と顔”ではなく、まず“名前と背番号”で覚えてもらうというのは、いつの時代であっても変わりはない。 われわれの時代はやはり3番と1番が特別な番号だった。言うまでもなく3番は元巨人の長嶋茂雄さん、1番はワンちゃんこと元巨人の王貞治だ。ON以前の時代から1番や3番は各チームの主力が着けていたし、大選手も数多くいたが、長嶋さんとワンちゃんはあっという間に自分たちの番号にしてしまった。 当時は子どもたちが銭湯に行けば、1番と3番の下駄箱を取り合ったなどと言われていたが、それは何も子どもたちだけの話ではない。何より長嶋さん自身が本当に「3番」が大好きで、ゴルフに行ってもロッカーは3番目、何でもかんでも「3」にこだわっていた。そこまで愛着とこだわりを持っているのだ。 私もプロ野球の世界に飛び込んでから引退するまで、ずっと10番を着け続けた。だが、1959年に東映に入団したとき、本当に欲しかったのは7番だった。純粋に「7」という数字が好きだったからなのだが、当時の東映の7番は59年からレギュラーに定着して主軸となっていく西園寺昭夫さんが着けていたから、あきらめるしかなかった。 私だけではない。3番と1番を除けば、印象深い背番号として7番を挙げる人は多かった。その理由が・・・
本文:2,534文字
購入後に全文お読みいただけます。
すでに購入済みの方はログインしてください。
週刊ベースボール