徳川慶喜でも岩崎弥太郎でもない…「新1万円札の顔」に起業ばかりしていた渋沢栄一がふさわしいワケ
■「創るけど、支配せず」の渋沢にとって株式会社は理想的 つまり、渋沢家が持株会社(渋沢同族、有終会)のほぼ全額を出資し、持株会社が第一銀行と東京石川島造船所の株式を過半数所有していれば、渋沢財閥が完成する――のだが、実際にはそうなっていない。持株会社を含め、渋沢系で第一銀行の株式の6.4%しか所有していないし、東京石川島造船所の株式も5.7%しか所有していないのだ。だから、財閥とはいえない。 先に渋沢財閥の持株会社として、渋沢同族と有終会を紹介したのだが、実際のところ、渋沢同族は渋沢家の資産管理会社。有終会は第一銀行行員の福利厚生機関でしかなかったようだ。 渋沢栄一はあんなにも多くの会社をつくったのに、なぜそれらを自分の支配下に置かなかったのか。 栄一は渡欧経験があり、西洋文明のすばらしさを身をもって感じていた。それを日本にも広めたい。その思いが強かったこともあろうが、それ以上に新しい産業・会社を興すことが好きだったのだろう。性格的な問題だ。ものを創ること自体に喜びを見出すような人物は、できたものの維持運営には往々にして興味がない。 栄一もご多分に漏れず、設立した会社で金儲けすることには、あまり興味がなかったらしい。それらの会社を自らの支配下に置き続けるには、株式を保有し続けることが必要だが、栄一はそれを売却して資金を用立て、次の会社を設立する原資とした。 できたものを維持運営するカネがあるなら、それで新しい事業を興したい。できた会社を支配するつもりがないから、出資は最低限でいい。残りのカネは合本(がっぽん)(株式会社方式で広く出資を募る)で集めよう! 株式会社は栄一の理想に極めて合致したビジネス・システムだったのである。
■渋沢の「自分だって三井や三菱に負けなかった」発言 晩年、渋沢栄一は「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎(三菱)にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と子どもたちに語ったという。カッコイイけれど、栄一はどんなにがんばってもやっぱり三井・三菱には勝てなかったと思う。 他の例を見ると、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は、栄一と同じく初物好きで、産業連関に関係なく、興味ある事業に手を出していった。喜八郎の死後、残された番頭たちは、まずその脈絡のない事業の整理からはじめねばならなかった。 跡継ぎの大倉喜七郎は戦後ホテルオークラを創業したくらいなので、優秀だったのだが、実態は父と同じだった。創業は好きだが、守成は苦手。好きな産業(ホテル・観光)にしか興味を示さない。当然、父の遺業の整理には向かない。番頭たちから、喜七郎は趣味人で無能と思われていた。喜七郎の才能が開花するのは、財閥が解体された戦後のことだった。 仮に渋沢財閥ができても同じ道をたどったと思う。渋沢栄一は第一銀行への思い入れが強く、子どもたちを銀行に入れたが、誰一人として続かなかった。父親や周囲の思惑と、子どもの興味・適性は異なるのである。 ■三井と三菱は経営向きの学卒者を大量採用して財閥を築いた 大倉喜八郎の死後、大倉財閥が混迷したのは、後継者が育っていなかったからだ。ただし、三井・住友は財閥当主が直接経営しなくても、有能な番頭たちが経営をリードすればどうにかなる。 三井・三菱が成功したのは、学卒者を定期的に大量採用することに積極的だったからだ。 たとえば、銀行業務でソロバンをやらせたら、大卒社員より商業高校出身者の方が秀でているだろう。しかし、今後の経済状況を俯瞰し、銀行がどういう方向に進んでいけばいいか。事務合理化をどのように進めていけばいいか。それにどれくらい経費をかけることが可能か……といった、実務ではなく経営戦略を立案して組織運営する話になると、大卒の方が一日の長がある(むろん個人差はある。確率の話である)。 1943年に第一銀行が三井銀行と合併すると、三井に比べて学歴の劣る第一銀行行員は不遇をかこい、不満が爆発して5年後に再分離している。換言するなら、栄一は学卒者の採用に必ずしも積極的ではなかったということだ。 これは栄一のビジネススタイルに大きく影響している。