『スキップとローファー』の現代性とは? “キャラ”を演じることの疲弊と克服
“キャラ”の皮をかぶった“キャラクター”たち
本作が高く評価されるのは、登場人物たちの表の顔と裏の本音を描くことを忘れない点だ。主人公を助ける男子、志摩聡介は誰に対しても優しい。しかし、人生に情熱を持てず冷めた感覚で生きている。表の仮面として身に着けているキャラと隠された本来の自分というものにギャップがあり、そういうギャップがほとんどの登場人物で描かれていく。 これは、ある種作品全体のコンセプトである「少女マンガの皮をかぶった」人間ドラマというこ点にも通底する部分がある。志摩も、江頭ミカも、その他のクラスメイトたちも、なんらかの皮をかぶっている。志摩は、文化祭で出演者になることを進められたときに、本音では断りたかったのだが「そういえばオレって、なんでも引き受けて嫌がんないキャラできてる?」と考えてしまい、断ることができなくなる。 この作品のキャラクターたちは、上述の志摩のように皆「キャラの皮をかぶっている」のだ。キャラクターがキャラを被るとは、妙な言い回しかもしれないが、この2つは明確に概念として分けることができる。キャラクターは、性格や人格を表す言葉で、アニメやマンガの登場人物のことを指すこともある。キャラとは、元々はキャラクターの略称であるが、人間に関係における類型的な役割や演じる表向きの人格を指して使われるようになってきている。 キャラとは他者から求められる役割であり、人はそういう役割を多かれ少なかれ演じている。それが最も色濃く顕在化しているのが、志摩だ。 志摩は、子役として活動していた時期があり、そのことを隠している。子役の活動は自分の意思というより母親が喜ぶからやっていたのだという。志摩と同じく子役をしていたモデルの西城梨々華が、志摩の母親に対して「また聡介を自分のために演じさせるの」と言い放つシーンが象徴的だが、演技と「キャラをかぶる」ことの近似性が志摩のエピソードには、表れている。 その近似性に気が付くと、他のキャラクターが抱えているものにも理解が深まる。ミカはコンプレックスを抱えていた過去から脱却するために、ダイエットもしてオシャレも研究して、カッコいい男子を捕まえようと良い外面を作ろうと努力している。過去の体験から劣等感を抱えていることが、根はやさしい彼女をキャラを演じる努力に向かわせている。 村重結月の場合は、外見の美貌ゆえに、周囲から勝手にこういうキャラだと決めつけられやすいことが彼女を苦しめている。 ほとんどのキャラクターが、表向きのキャラとその裏にある自分とのギャップに苦しんでいるのだ。 キャラを作るのは人間関係を円滑にするための手段でもあり、今多くの人がやっていることでもある。現代は一億総キャラ化時代とも言えるだろう。とはいえ、キャラを演じることに消耗している人も多いだろう。そういう時代に『スキップとローファー』は、キャラとその裏側の人間を描くことを試みている。 そのキャラ作りをしていないのが、主人公の岩倉美津未だ。彼女はいわゆる「天然」キャラと認識されているが、演じているわけではない。だからこそ、周囲のキャラクターと好対照をなし、全くキャラ属性の異なるクラスメイトを繋げる媒介となれている。 表向きのキャラ属性を乗り越えて、素の人間として人を見ることができることの豊かさが本作には描かれている。現代に生きる我々は、日々キャラに囚われながら生きている。そんな現代人の気持ちを掬い取りながら、キャラの皮を脱いだ人間関係を築くことの大切さを描いている。この作品が胸に沁みる理由はここにあると筆者は思う。
杉本穂高