「電線音頭」に「小松の親分さん」で一世風靡 植木等を“オヤジさん”と呼んだ「小松政夫」唯一無二のコメディアン人生
俳優としても活躍
どんな人生を送ったのか。 1942(昭和17)年、福岡県福岡市瓦町(現・博多区)まれ。自宅前の焼け跡では露天商が口上を繰り広げており、子どもの頃から口上に興味を抱いたという。自然に言葉や啖呵のリズムを覚えてしまったそうで、それが後にコメディアンとしての持ち味となったエネルギッシュな動きと口調に生かされるようになったというのがもっぱらの評判だ。 高校時代に芸能界に憧れ、1961(昭和36)年に上京。自動車セールスマンなどを経て植木等さん(1927~2007)の付き人兼運転手に。ほぼ同じころ、映画評論家の淀川長治さん(1909~1998)のものまねが評判となり、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)でデビューするが、このころちょっと泣かせる話があるので書き残しておこう。 一般社団法人日本喜劇人協会の9代目会長・橋達也さん(1937~2012)が私に教えてくれたのだが、小松さんは付き人として植木さんに弟子知りする際、こう言われたという。 「君はお父さんを早くに亡くされたそうだね。でも、これからは僕を父と思えばいい。『先生』なんて呼んだら張っ倒すからな」 以降、小松さんは植木さんを「オヤジさん」と呼ぶようにしたという。 話を戻す。 亡くなって3日後の2020年12月12日付の朝日新聞の朝刊社会面によると、70年代にバラエティー番組「笑って! 笑って!! 60分」(TBS)と「みごろ! たべごろ! 笑いごろ!」(NET=現・テレビ朝日)で喜劇役者の伊東四朗さんと共演したのが芸能界での大きな転機となった。 俳優としても活躍。「前略おふくろ様」(日テレ)や「ハケンの品格」(同前)、故郷・福岡を舞台としたNHK連続テレビ小説「走らんか!」などに出演した。06年には自伝的小説「のぼせもんやけん 昭和三〇年代横浜~セールスマン時代のこと。」、翌年に「のぼせもんやけん2 植木等の付き人時代のこと。」を発表し、後にNHKで「植木等とのぼせもん」としてドラマ化された際の原案となった。 小松さんの芸の本質とは何だったのだろう。ここからは私見だが、そのヒントを忍ばせた言葉がある。 《眉間にしわを寄せて涙を流しても、悲しみの表現にはならない。リアルな人間の振る舞いはそんな単純じゃないですよ。芝居を見て笑っていたはずが、気づけば泣いている。そんな喜劇をどうしてもやりたくなりました》(朝日新聞:2018年2月28日朝刊) さまざまなところで書かれているのだが、小松さんは上京後、魚河岸、お菓子店、判子店、花店などを経て、自動車のセールスマンになった。睡眠時間を極端に削り、車のセールスに勤しむ毎日。新宿の寄席に通い余興ネタのメモをとり、浅草ではストリップの合間に演じられる幕間のコントに夢中になった。自動車販売会社の優秀社員と同時に、宴会芸として職場の人気者になったに違いない。