許されぬ「外務省の戦争責任」隠し 日米開戦で「最後通告」遅れた責任者2人を事務次官に 政治家としてはあまりにお粗末
【杉原誠四郎「続・吉田茂という病」】 戦後の混乱期に首相を務めた吉田茂には、機転が利き、ユーモアを解する好人物として見ることもできる面があった。 【画像】杉原誠四郎の著書『吉田茂という病 日本が世界に帰ってくるか』 1946(昭和21)年4月10日、戦後初めての総選挙が行われた。第1党になったのは鳩山一郎率いる自由党だったが、鳩山は首相就任寸前に公職追放になった。鳩山は直接、吉田に後を依頼してきた。 同年5月16日、吉田に組閣の大命が下った。だが、吉田は組閣を急がなかった。迫る大飢餓のなか、GHQ(連合国軍最高司令部)最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が同月21日、食糧支援を吉田に約束してきた。吉田はそれを待ってから、22日に吉田内閣を発足させた。なかなかの機転である。 吉田はその後、食糧の不足量を数値をあげてマッカーサーに支援を陳情した。だが、占領軍が調べると、その数値ほどの不足ではないことが分かった。マッカーサーが日本の統計は杜撰(ずさん)だとなじると、吉田は「日本の統計が正確であれば、あの戦争はしなかった」と切り返した。機転とユーモアである。 ところで、吉田は政治家として、優れた識見を有し、優れた判断をし、優れた決定をして、日本と日本国民に優れた結果をもたらしたのか。 実は、政治家としてみた場合、あまりにもお粗末なのである。 憲法第9条で、あえて間違った解釈をし、日本を「自分の国を自分で守る」という論理を持たない「半国家」にしたことは前回述べた。 さらに、日米開戦にあたり「最後通告」を指定時間に米国側に手交することに失敗した外務省の直接の責任者2人を、占領終結前後に事務次官に就任させ、「外務省の戦争責任」を隠した。これは政治犯罪と呼べるほどの誤った政治判断であり、誤った政治決定である。 日本海軍の真珠湾攻撃を「無通告の攻撃」(=だまし討ち)と見た米国民は火の玉のように怒り、日本に原爆投下をするほど許さなかった。 そのような重大な責任を隠した外務省は、かの戦争の全責任を旧軍部に押しつけ、その結果、戦後の外務省は自虐史観に立った外交しか展開できない機関になった。自虐史観に塗りつぶされた外交は今日も続いている。