「こんなもの送られてきても」...被災者の「本音」が丸裸にした「日本人の“おもいやり”」が裏目に出てしまう納得の理由
いままで、「大切な人と深くつながるために」「いじめられている君へ」「親の期待に応えなくていい」など、10代に向けて多くのメッセージを発信してきた作家の鴻上尚史さんが「今の10代に贈る生きるヒント」を6月12日に刊行する。その書籍のタイトルは『君はどう生きるか』。昨年ジブリの映画でも話題になった90年近く前のベストセラーをもじったこのタイトル。なぜ「君たち」でなくて「君」なのか。そこには鴻上尚史の考える時代の大きな変化があった。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 『君はどう生きるか』(鴻上尚史著)より抜粋して、著者がいまを生きる10代に贈るメッセージを一部紹介する。 『君はどう生きるか』連載第18回 『「自分の好きなことは相手も好きだ」…親切の押し売りをしていませんか? 今こそ知るべき“シンパシー”と“エンパシー”の違い』より続く
実は困る「祈りの象徴」
被災地に送られてくるもので、一番、困るものは何か知っていますか? 「折り鶴」なんです。同情とかおもいやりの象徴ですよね。折り紙で鶴を折りながら、被災地の復興を祈る。それはとても素晴らしいことです。でも、送られた人たちにとって、今必要なのは、水や食料や新しい衣服であって「折り鶴」じゃないんです。 なおかつ、たくさん送られてきたら、折り鶴を置く場所にも困ってしまう。捨てたりしたら、大問題になるでしょうからね。「被災地を心配する人々の心を捨てるのか!」なんて炎上しそうですよね。 「折り鶴」を送る人は、同情とかおもいやりの「シンパシー」がとても強い人だと思います。
真に必要な「エンパシー」
でも、被災地の人に必要なのは、「エンパシー」の能力が高い人なんです。 被災地では何が必要なんだろう、何が足らないんだろうと、「相手の立場に立って考えられる能力」が求められるのです。 日本人は1980年代ぐらいまで「みんな同じ」という生活をしていました(本当は違った人もいたんだけど、圧倒的に無視されてきたのね)。 「みんな同じ」だから、シンパシーで判断して(一応)問題はなかったんです。 孫に食べ物を買ったら無条件で喜ぶと思っていたし、子供に親が選んだ服を着せても子供は黙って受け入れたんです。 でも、ひとりひとりが違うんだとみんなが気付く時代が始まりました。この違いは、これからますます広がるでしょう。 そういう時に「私の好きなものは相手も好き」「私の嫌いなものは相手も嫌い」と決めつけていては、対話どころか相手とぶつかるだけになるのです。 『「わざわざ聞くのは申し訳ない」は時代遅れ! 「多様性」の時代に日本人を縛ってしまう「呪いの言葉」』へ続く
鴻上 尚史
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