【特集 ザ・作州人】 校友80万人を率いるリーダー 東海大学学園校友会会長・後藤俊郎さん
今月の「ザ・作州人」は「東海大学学園校友会」を束ねる後藤俊郎会長(76)にご登場願った。国内有数のマンモス校とあって、付属校を含めると卒業生、保護者の校友会員数80万人の大所帯。仕事は多岐にわたるが、いまでも全国を飛び回り、自慢の度胸と愛嬌(あいきょう)、そして卓越した交渉力でリーダーシップを発揮している。そのバックボーンとなっているのは激動の若き日々だったか。
ただ者ではない。東海大学の校友会を取りまとめ、大学の生き字引を自認する後藤さんは、さらりと言った。
「きのう、原辰徳さんらとゴルフをしてきましたよ。千葉の常陽カントリーで。いやぁ、暑かった」
実は後藤さんは津山高野球部の先輩。噂は聞いていた。40年以上前のこと。恩師で故人の小椋嘉幸監督から「ヤマ。お前、東海大に行くか。いい先輩がおるぞ」と勧められたこともある。しかし、当時の東海大野球部は黄金期。尻込みしたのは言うまでもない。
ただ、そのときから後藤さんのことは気になっていた。今回、あらためて経歴を聞くと小椋監督1年目の野球部に入り、俊足巧打の内野手として活躍。その積極的なプレーから「クマ」と呼ばれていたそうだ。
一方で父は柔道部で2度の全国制覇に貢献しており、当時の顧問から「なんで柔道着を着てこんのなら?」と入部を迫られた。しかし「耳がつぶれるのは嫌」と逃げ帰ったという。また高校3年間は「男子クラスにハマって、女性との交遊関係は一切なしでした」と豪快に笑った。
その後、東海大へ。勉学に励んでいた3年秋、運命が一変する。日大紛争に端を発し、全国に学園闘争が広がった時期。大学や紛争反対派が推す対抗馬として全国5キャンパスの合同学生委員長に立候補し、決選投票の末に選ばれた。
そこからは激動の日々が続く。バリケードが張られる中、大衆団交の先頭に立った。ペンキで「後藤合同を殺せ!」と書かれた立て看板。夜中に会議中、全共闘の学生に囲まれ「トラックを呼んで命からがら暁の脱出、というのもありました」と振り返った。