【追悼】YMOを成功に導いた川添象郎についてーー村井邦彦「ショウちゃんほど多彩な経験を積んだ男はいない」
音楽プロデューサーの川添象郎が9月8日、福島県内にて死去した。83歳だった。1969年にミュージカル「ヘアー」来日公演をプロデュースし、1970年代半ばからはアルファレコード創業者の村井邦彦とともに、制作担当役員としてYMOや荒井由実(松任谷由実)などのアーティストたちを世に送り出すなど、日本の音楽シーンに大きな足跡を残してきた。 川添象郎プロデュース作品集『象の音楽』(2023年) 近年は世界的なシティ・ポップのブームでその作品群が改めて評価され、2022年には自伝『象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー』(DU BOOKS)を、2023年には自身がプロデュースした青山テルマ、吉田美奈子、細野晴臣&イエロー・マジック・バンド、小坂忠らの楽曲を収録したアルバム『象の音楽 ~世界に衝撃を与えた川添象郎プロデュース作品集~』(ソニー・ミュージックレーベルズ)をリリースし、存在感を示していた。 リアルサウンドでは、イタリアン・レストラン「キャンティ」創業者であり、国際文化プロデューサーとして活躍した父・川添浩史についての貴重なエピソードや、自著についてのインタビューなどで何度もお話を伺った。改めてご冥福をお祈りするとともに、村井邦彦が川添象郎プロデュース作品集『象の音楽』(2023年)に寄稿した文章の掲載をもって、哀悼の意を表したい。 ■川添象郎について 川添象郎(以下ショウちゃんと書く)ほど多彩な経験を積んだ男はあまりいないと思う。ショウちゃんの父親で高名なプロデューサー、川添浩史さんはショウちゃんが高校を卒業した時に「君は何をやりたいのかね」と聞いたのだそうだ。ショウちゃんは「音楽や映画や舞台の仕事をしたい」と答えた。浩史さんは「君がやりたいことは大学では教えてくれない」と言ってショウちゃんをいきなりラスヴェガスのフィリピン・ショーの舞台美術の助手の仕事に送り込んだ。フィリピン人のアーティスト達が歌ったり踊ったり、裸の女性が出てきたり、舞台に滝が流れるショーだった。ショウちゃんは舞台美術の大工仕事から始めて1ー2ヵ月のうちに舞台監督に出世して現場で采配を振るうようになった。 裸の踊りをしていたのは日劇ミュージックホールに出演していた日本人のトップレスのダンサー達だった。フィリピンはカトリックの国で、当時裸の踊りは禁じられていたらしい。それでこのショーのプロデューサーだったスティーヴ・パーカー(シャーリー・マックレーンの夫)は急きょ日本人ダンサーを招聘したのだそうだ。パリのリドのショーでもそうだがトップレスのダンサーはヴァラエティー・ショーの華だったからだ。 日本人のダンサーのお姉さんたちは舞台に歩いて行く途中に舞台の袖で舞台監督としてキューを出すショウちゃんの股間をなでたりギュッと掴んだりしたそうだ。「ヤメロ、ヤメロ」とショウちゃんは叫んだのだろうか。しかしキューも出し続けなくてはいけないのだから大変だったに違いない。お姉さんたちは20歳にもならないショウちゃんを可愛いと思ってちょっとからかったのだろう。たしかにこんな経験は大学ではできない。こういうことを含め舞台の現場の仕事が若いショウちゃんにすんなりとしみ込んでいったのだと思う。 その後、ショウちゃんはニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに引っ越してフラメンコ・ギターを弾くようになった。フランコ独裁政権下のスペインから亡命してニューヨークに逃げて来た天才フラメンコ・ギタリスト、サビーカスの一門に加わった。 ショウちゃんはニューヨークで活躍する作曲家、伊藤テイジに誘われてオフ・ブロードウェイの前衛ミュージカル「六人を乗せた馬車」(原作・ジェイムズ・ジョイス)にギタリストとして参加した。「六人を乗せた馬車」はニューヨークで大成功したのでイタリアのスポレト、パリ、ダブリンなどの演劇祭に招かれた。ショウちゃんもヨーロッパに渡った。ヨーロッパ滞在中にはマドリードで最高のタブラオ(フラメンコを見せる店)、コラル・デ・ラ・モレリアに出演した。超一流のジプシーのギタリスト、歌手、踊り手などと半年以上にわたって一緒に演奏したり交遊した経験はショウちゃんにとって最高の音楽経験だったと思う。 その後日本に帰り、「六人を乗せた馬車」を草月会館で上演した頃、僕はショウちゃんと出会った。僕の憶えているショウちゃんの仕事を列記すると、シアトル万博での「文楽」公演の舞台監督、東京ヒルトン・ホテル(現在のザ・キャピトルホテル 東急)内のナイトクラブのショー・マネージャー、フィリピンバンド「デ・スーナーズ」のマネージャー、フランスのバークレー・レコードのプロデューサー、新宿の日本初のタブラオ「エル・フラメンコ」の立ち上げ、写真家集団「マグナム」の日本代表、ミュージカル「ヘアー」の日本版のプロデューサー、マッシュルーム・レコードの創業、アルファレコードの制作担当役員、サンジェルマンのディスコ「キャステル」の日本店の立ち上げ、などがある。驚くことに高級家具のレンタル会社まではじめて一時期は大成功したこともある。仕事の範囲が恐ろしく広いのだ。 ショウちゃんは僕と山上路夫さんとが創業したアルファで重要な仕事を沢山してくれたのだが、立ち上げの頃のユーミンのライブを担当してくれたこと、YMOの二回にわたる世界ツアーの現場を担当してくれたことが思い出される。なかでもYMOのツアーにはショウちゃんがアメリカやヨーロッパで身に着けた知識や経験が生かされた。ショウちゃんなしにこのツアーの成功、YMOの成功はなかったと思う。 原稿を書きながらショウちゃんと知り合った頃、今から60年ほど前の飯倉片町のイタリアン・レストラン「キャンティ」のことを思い出している。日本に帰ってきたショウちゃんは、夜が更けるといつも店の前に椅子を持ち出してギターを弾いていた。その頃の飯倉片町は都電が終電になった後は静かなものだった。通りは真っ暗で店のガラス窓から漏れてくる光がいい具合にショウちゃんとギターを照らしていた。ショウちゃんの弾くギターからはスペインの広い空や、タートルネックのセーターを着た芸術家達が歩くグリニッチ・ヴィレッジの路地などが感じられたものだった。 このアルバムを聴いてショウちゃんの世界を感じてもらえれば嬉しい。 2022年11月22日 村井邦彦 (作曲家)
リアルサウンド ブック編集部