ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (40) 外山脩
罹病者はドンドン増えて行った。一軒に一人、二人は少ない方で、家族全員、枕を並べて寝込んでいる家も珍しくなくなった。 この頃になって平野たちは、病気はマラリアと判断した。 死者が相次ぎ、墓地の土饅頭が増えていった。棺を担ぐその家族も罹病しており、フラフラしながら運んだ。 ある家では、夫婦は生きているだけの状態となり、そばで子供が冷たくなっていた。隣家の者が気づき、急ごしらえの棺に子供を入れ担ぎ出した。夫婦は虚ろな目で見ていた。手を合わせる気力も残っていなかったのだ。 二月に入ると犠牲者は増えた。 棺が不足し始めた。木を伐って板にする腕のある者が死んでしまったのである。 小屋の床板を剥いで棺にした。 幼児の場合は、日本から持ってきた柳行李で代用した。 しかし埋葬する穴を掘る体力の残っている者もいなくなった。そこで「密かに火葬に付した」という。密かに、とは役所の許可を得ないで……という意味であろう。 最初の火葬は、吉武という家の老婆だった。その息子夫婦はすでに幼児二人を残して死んでいた。 隣人が老婆の姿を見かけなくなったので小屋を覗くと、死んでいた。身体中を蛆が這いまわっていた。幼児の一人が無心にその蛆を捕まえては投げていた。もう一人は高熱で気息奄々としていた。 止むを得ず二人の幼児を外に運び出し、小屋に火をつけた。 三月に入ると犠牲者はさらに多くなり、日に三人ということもあった。 西郷という家の亭主が死んだ。棺の用意が出来ないので三、四日そのままにしておいた。やっと棺ができた。が、運ぶ体力のある者がいなかった。 女房は重症で寝ていたが、よろよろ這い出し「私が」と担いで歩きだした。が、すぐぶっ倒れてしまった。止むを得ず、枯れ枝を集めて、その上に棺を置き、石油をそそいで火をつけた。 こうした火葬をした一人が、後年、こう語っている。 「人を焼いても決して臭いものではない。産後に死んだ人の腹からは二筋の水が噴き出した。頭が割れ、脳みそが噴き出すと、火勢は強くなった」 死者の合計については、資料によって異なる。六〇人、七〇人、八〇人と。 集計した時期の違いによろうが、入植者は約三〇〇人だったというから、少ない比率ではない。 犠牲者の多くが、抵抗力の弱い幼児だった。一方で両親が死に、子供が一人あるいは二人だけ残ったという家も何軒もあった。 地獄絵図そのままの惨状だった。 そうした中で、医者を呼ぶことはできなかった。当時、辺鄙な処で医者を呼べば、目の玉が飛び出るほどの診察代を要求された。 平野は、せめて薬を飲ませようと必死になった。州政府や日本総領事館にキニーネの送付を依頼した。後日、送られてきたが、量は僅かだった。 総領事館がサントスにいた日本人医師を派遣してくれたが、専門医ではなく、手がつけられなかった。 結局、平野が無理な資金繰りをして薬を買い、入植者に配った。しかし効果は捗々しくなかった。 ここで注記しておくと、病名については、平野たちはマラリアと判断した。後年記された資料類も何の疑いもなくマラリアとしており、今日では、それが通説となっている。 が、異説が存在する。 例えば南樹は、 「或いはマラリアより少し遅れてパラチフスが流行したのではないか。パラチフスの療法は、マラリアとは相反するものがある。それに気づかずマラリア一点張りの治療をしたことが、あの様な死亡率を出したのではなかろうか?」 と、書き残している。 さらに、この大惨事の十数年後に、日本から来た細江静男医師は、 「人々は、悪性マラリアに黄疸を発したのだという。しかし私は、これはあやしいと思った。森林黄熱病ではあるまいか?」 と、その著に記している。 細江は移民の医療に生涯を捧げ、道庵先生と親しまれた人である。(道庵は医師としての号)