「古里を忘れること、受け入れてもいいかな」震災から12年、当時小学5年生だった男性は語り部の活動を離れた
東京電力福島第1原発事故で今も約2万7千人が避難生活を続けている福島県。事故当時、富岡町の小学5年生だった佐藤勇樹さん(23)は歴史的な体験を後世に伝える「語り部」として2年間活動を続けたが、今年3月で休止した。事故から12年。町は復興が進み、当時の面影をほとんど残していない。「町を忘れることを受け入れてもいいのかな」。古里にとらわれるのをやめた佐藤さんの心情を追った。(共同通信=加我晋二) ▽分からないまま避難 東日本大震災の発生時は体育館で、卒業式に備えてパイプイスを並べたり紅白幕を張ったりしていた。もうすぐ準備が終わるという時に突然、地鳴りのような音が聞こえ、バスケットボールのゴールがきしんだ。 「なんだこの音は」と思った瞬間、建物全体がねじれるように大きく揺れ始める。「でっかい地震だ」とようやく気づき、先生に言われるがまま並べていたパイプイスの下に頭を隠した。その後は迎えに来てくれた家族と合流。余震が続いていたため自宅近くの空き地で車中泊した。
翌朝、防災行政無線から「避難してください」と大きな音が流れ、何が起きたか分からないまま隣の川内村に移動する。途中、誘導している警察官が白い防護服を着て、ガスマスクのようなものを着けていた。こんな光景は見たことがない。だが当時は近くに原発があることも知らず、ただ「なんでこんな格好しているんだろう」と不思議に思った。 数日後、一家は親戚を頼って茨城県鹿嶋市に避難。富岡町の自宅は居住制限区域になった。 ▽初めての一時帰宅 新しい生活が始まっても、なぜ転校し、友達と離れなければならないのかよく理解できなかった。事故のニュースは「炉心溶融(メルトダウン)」「放射性物質」など難しい言葉ばかり。親も新生活で余裕がなく聞けなかった。 それでも新しい友達をつくり、学校になじまないといけない。既に6年生で周りは友人関係ができており、輪に入るのに精いっぱいだった。富岡のことを考える余裕はなくなった。