『猿の惑星』著者は日本軍の捕虜になった体験があったーー原作から浮かび上がる時代背景とその思潮
映画『猿の惑星』シリーズの新作『猿の惑星 キングダム』(ウェス・ボール監督)が5月10日より公開された。猿と人間の地位が逆転し、知性の衰えた人間が猿に支配される社会が成立する。それぞれの種族内の対立もからみながら、猿と人間が世界の覇権を争う。そのような大枠を持つ『猿の惑星』は、これまで何度も映像化されてきた。 1968年の最初の映画化『猿の惑星』から始まり『最後の猿の惑星』(1973年)で終わった全5作のシリーズ。ティム・バートン監督による『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001年)。『猿の惑星:創世記』(2011年)から『猿の惑星:聖戦記』(2017年)までのリブート3部作。これらの映画化以外にも1974年にアメリカで作られたテレビ・シリーズは翌年に日本でも放映されたし、この国では猿に支配された人間という設定をそのまま借用した『SFドラマ 猿の軍団』(1974~1975年。原作チームには小松左京も参加)まで製作されたのだ。長く人気がある定番のネタとなっている。 その世界観を象徴するイメージが、今回の『猿の惑星 キングダム』の宣伝映像としてテレビでも流れた猿による人間狩りだろう。猿の上位に立っていたはずの人間が、ただ逃げ惑うしかない無力な存在に堕している絶望感を瞬時に見せつける場面である。『猿の惑星 キングダム』の舞台は、リブート3部作のさらなる未来とされているが、人間狩りの衝撃は、1968年の映画化第1作の冒頭にあったものだし、原点回帰の趣もある。 そして、人間狩りも含め、様々な映像化を生んできた猿と人間の地位逆転というアイデアは、もともとはピエール・ブールの原作小説『猿の惑星』(1963年)に由来するのだ。 同小説の日本語版は『猿の惑星 キングダム』公開にあわせ増刷されているだろうと思ったが、調べてみると創元SF文庫(東京創元社)の大久保輝臣訳、ハヤカワ文庫SF(早川書房)の高橋啓訳のいずれもが、今は新刊で流通していない。嘆かわしい。これは面白い小説なのである。古書や図書館でわりと手にとりやすい本だから、ぜひ読んでほしい。 ブールの原作では、恒星間飛行が普通になった時代にある夫婦が、人間による記録を収めた容器を宇宙で拾う。新聞記者ユリッス・メル―が書き残していたのは、彼が到着した地球によく似た星で人間を支配していたのが、知能の高い類人猿(Ape)だったこと。会話ができる猿に対し、その星の人間は喋れず、裸で動物なみの生活をしていた。メルーは猿に捕獲されたものの、知能を持ち話せる人間という希少さから、チンパンジーの学者たちのもとで暮らすことを許される。 猿たちの社会は科学が未発達であり、地球の近代よりも前の段階にとどまっている。だが、猿による遺跡調査に協力したメルーは、現在では動物と化している人間が、過去には猿社会以上の高度な文明を築いていたのを知る。猿社会で権力を持つオランウータンたちは、知能を有する人間の存在が、猿と人の地位が再逆転する契機となるかもしれないとメルーを危険視し出す。このため、彼は、チンパンジーたちの協力を得て惑星からの脱出を図る。 このような物語を著したピエール・ブールは、第二次世界大戦中、フランス軍に従軍し、日本軍の捕虜になった体験があった。彼はその体験を活かし、日本軍の捕虜収容所に入れられた連合軍兵士が、タイのクワイ河鉄橋建設に従事させられる『戦場にかける橋』(1952年)という小説を書いた。1957年に映画化されヒットした同作は、鉄橋爆破計画をクライマックスとしたアクションものであると同時に、日本人と西洋人の文化的衝突を描いてもいる。作中には連合軍兵士が、軍の日本人や朝鮮人を「黄色い猿」呼ばわりする場面もある。ブールの経歴から、『猿の惑星』の猿による人間支配についても、著者の捕虜体験が反映されているととらえられてきた。 一方、『猿の惑星』が最初に映画化された1968年は、長髪の若者による反体制運動、黒人の公民権運動が熱を帯びた時代だった。ゆえに『猿の惑星』シリーズを世代間闘争や人種差別の比喩ととらえる解釈もあった。21世紀になって製作されたリブート3部作に関しても、世界各地でみられる民族や貧富などの分断状況を猿のイメージを通して語ったものと容易にとらえうるだろう。 ブールは、人間に一番近い動物とされる類人猿が社会的権力を持つ設定によって、人間というものを風刺した。わずかな差で相手を仲間か仲間でないかを分ける傲慢さが、そこには描かれている。また、人間化した猿の暴力や猜疑心を表現することは、逆にいくら人間が文明化したようでも争い続ける我々は獣の域を出ていないのではないか、『猿の惑星』の猿と変わらないのではないかという思いを引き寄せる。猿と人間の地位逆転というシンプルな発想は、様々な種類の差別や分断の暗喩となりうるし、いろいろな物語展開に応用可能な奥行きを持つ。『猿の惑星』の基本設定は、1つの発明だったといっていい。 ブールの原作小説は、猿対人間のシンプルな対立を軸としつつも、猿には暴力的で軍人のゴリラ、知性的で学者のチンパンジー、老獪で政治家的なオランウータンと色分けがあった。人間に関しても、知性の有無で差異がある。いずれも一枚岩ではなく、それぞれの種族内で意識のズレや対立などがあることも、以後の数多い映画化における物語のヴァリエーションを生む出発点となった。 新作映画『猿の惑星 キングダム』を劇場で観ていて、背景の音楽におやっと思った場面があった。サウンドトラックを担当したのはジョン・パエザーノだが、1968年の映画化第1作で流れたジェリー・ゴールドスミスの音楽も一部に使われていたのである。このことは、新作における原点回帰の意識を感じさせた。人間狩りのシーンが、第1作冒頭にあったことはすでに触れた。それ以外に原点回帰として重要なのは、かつて人間が惑星を支配していた歴史の忘却・隠蔽に関し、猿と人間が閉ざされた場にある過去の遺物を明らかにし、それぞれ自分の立場にとって都合のいい解釈をしようとする展開だ。 この展開は、先住者と後の時代の実効支配者との対立に関連した歴史の伝承、修正や歪曲、忘却、隠蔽という、今も世界各地にある問題を連想させる。そうした歴史問題のモチーフは、映画第1作をはじめ『猿の惑星』シリーズ諸作にしばしば盛りこまれてきたが、その出発点もブールの原作にある。彼の小説では、遺跡調査で発見された人形が、歴史の事実を解き明かす重要な鍵になるのだ。 猿に支配された惑星の歴史について、1968年の映画第1作では、主人公の人間が驚愕するラストが待っていた。それに対し、ブールの原作は、同映画とも異なる意外な結末が用意されている。小説が語った宇宙の歴史の真実とはなんなのか。本を読んで確かめてもらいたい。
円堂都司昭