最も野茂に嫌われた記者が投じた「一票」
野茂の希望をドジャース広報部が聞き入れ、日本人記者のクラブハウス出入りは禁じられ、インタビューは4日に1度だけと決められた。それ以外の取材は一切シャットアウト。それでも、筆者が追いかけていると、「僕の夢を邪魔しないでください」と凄(すご)まれた。その迫力は今でも忘れられない。 ■近鉄時代の勲章を捨て勝負した野茂 彼は、近鉄時代の勲章を捨て、メジャーに勝負に来ていたのだ。だが、ドジャ―スタジアムのロッカーでは、日本人記者は締め出されるが、敵地に行くと、そのルールはない。ストライキがあったため、開幕は、5月にずれこんだ。そのデビュー戦となる、対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦の前日には、小さなロッカー内が日本の報道陣で無秩序にごった返した。 それに、キレた野茂は、ペロっと大きなお尻をだした。 「これなら写真も映像も出せないでしょう! もうええかげんにしてくださいよ!」 ■異例の事態 ラソーダ監督が事態を収拾 慌ててトミー・ラソーダ監督が割って入ってきた。記者を集めて「聞きたいことがあれば私が代わりに答える。ヒデオにかかわるな!」と叫んだ。地元記者に聞くと、異例の事態だという。 ”初めて”の日本人メジャーリーガーの取り扱いを巡って、現場も混沌としていた時代だった。1995年5月2日、今は姿を変えたキャンドルスティックパーク。多くの記者を収容できず、私はアメフト用の別席に追いやられた。すっと背筋を伸ばし、クルっと背中を向けて投じた、記念すべき、その1球目は、ストレートだった。 ■野茂が切り開いたメジャーへの道 バリー・ボンズ、マッド・ウィリアムスらが揃ったクリーンアップには1本のヒットも許さず、5回91球を投げ被安打1、無失点、奪三振7。試合は、延長にもつれて勝ち負けはつかなかったが、ラソーダ監督は、野茂を絶賛、それまで冷ややかに見ていたロスのメディアも一転、「NOMO」の活字でヘッドラインを打った。 あれから19年の年月が経過した。野茂が、自らの夢を追い、日米にこじあけた扉を通って、イチローも、大魔神も、ゴジラも、ダルビッシュも海を渡った。マスメディアから離れた私は、殿堂入りの投票権を持たないが、気持ちの”一票”を野茂に投じた。 (文責・本郷陽一/論スポ、アスリートジャーナル)