婚活に失敗した紫式部
平安時代を代表する大小説家紫式部(むらさきしきぶ)。しかし、プライベートでは、あまり幸せとはいえない結婚生活を送ったようだ。 紫式部をご存じだろうか。世界的にも有名な小説『源氏物語』の作者で、小倉百人一首にも歌が選ばれている歌人でもある。 『源氏物語』は、主人公光源氏(ひかるげんじ)とその息子薫(かおる)の生涯を描いたもの。光源氏の恋愛模様が物語の大きなウエイトを占めているので、作者の紫式部もさぞかし、恋愛上手かと思われるがどうやらそうではなかったらしい。 紫式部の父は藤原為時(ふじわらのためとき)という。藤原家は北家、南家、式家、京家と4家あったが、最終的にもっとも栄えたのが北家で、かの藤原道長(みちなが)も北家の出身。為時はその傍流である。曾祖父には三十六歌仙に数えられる中納言兼輔こと藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)がおり、彼女の才能はこの父方の曾祖父から受け継がれたものであろう。 為時は中央、つまり京都ではあまりいい役職に就くことができず、筑前守や越前守という現在の県知事として現地に赴任している。ちなみに戦国武将や江戸時代の大名たちも●●守と名乗ってはいるものの、名目だけで、その地に赴くことはなかった。 もしかしたら父親があまり出世できなかったことも影響したのかもしれないが、紫式部は婚活に失敗したといえるだろう。というのも、彼女が結婚したのは、30歳前後だとされている。平安時代には女性の場合、13歳で結婚することができた。実際には15、16歳ぐらいになってから結婚したようだ。男性も15歳で結婚することができたが、20歳前に結婚することが多かったようだ。当時は平均寿命が50歳に満たない時代で、今よりもずいぶん人生のタイムスケジュールが前倒しなのだ。 30歳目前で結婚した相手は18歳くらい年上の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)。当時の結婚事情からすれば、親子といっても通る。同じ藤原北家の出身で又従兄にあたり、宣孝は為時と個人的な付き合いがあったので、紫式部にとっては、宣孝は知り合いのおじさん。宣孝は紫式部を親戚の女の子と思っていたはずだ。 源氏物語は、宣孝が亡くなってから書かれたといわれているが、その前から紫式部の文才は評判になっていたようだ。親戚の女の子がどんな才能の持ち主なのか。それを自分でも確かめたいとお願いして、無事文を貰うことができたようだ。 ところが、宣孝はそれを無断で人に見せてしまったらしい。「私に黙ってそんなことをするなんて」と怒った紫式部は、かなりきつい言葉で返却を求めた。これを面白いと感じたのだろうか。宣孝は、父の赴任先の越前について行った紫式部に何通も手紙を書いた。都にはたくさん女性がいるのに、わざわざ越前まで手紙を送る宣孝の熱意にほだされてか、紫式部は結婚を決めたようだ。 しかし、相手は、50歳に手が届こうという当時では年寄り。大した役職にもついていない。その上若いころはかなりお盛んだったようで、わかっているだけでも3人の女性に子供を産ませている。初婚の女性にとって魅力な男性とはいいがたい。それでも結婚したのは、周囲の「結婚しろ」という言葉に根負けしたのか、それとも生い先を考えたのかもしれない。 一方の宣孝は、歳を重ねて「今まで付き合ったことがないタイプの女性もいいなあ」というノリで紫式部と結婚しようとしたのだろう。ところが、結婚しても彼女のキツイ性格は変わらなかったようで、家に寄り付かない宣孝を責めるような手紙が残っている。こうしたこともあってか、ますます宣孝の心が離れていく。しかし、離婚ということになる前、結婚してからわずか2年後、宣孝は49歳で亡くなった。 その後、紫式部に求婚した者がいたという説もあるが、生涯再婚しなかったという。
加唐 亜紀