突然襲った難病と向き合いながら初シードの小浦和也。薬の副作用で顔がパンパンに。「でも僕にはゴルフしかない」
プロ入り9年目の昨年、賞金ランク61位で初めてシード権を獲得した小浦和也。突然襲った病魔と闘いながら、1つ1つ気力と努力で乗り越えてきたプロゴルファーが紡いできたご縁とは?
フェニックスアカデミーに現れた小浦和也は、キャディバッグを肩から斜めにかけ見るからに"いい人"の雰囲気を醸し出していた。 「僕、ジュニアみたいですね」 童顔をほころばせながら 「オフもここでみっちり練習します」 施設契約しているフェニックスリゾートはトレーニング、練習、ラウンドを行える抜群の環境だ。昨秋、この馴染みのコースで行われるダンロップフェニックスの舞台にプロとして初めて立った。 「今までとは違う緊張感でした。地元の方にたくさん来ていただいて。小学生時代から見に来ていた試合に出られるなんて夢みたいな話。ましてやここで練習させてもらっている。想いが増して『もうこれでいいや』と一瞬思いましたけど、いざ舞台に立つとここで結果を出したいとなる。こうして次のステップって行けるんですね」 このとき小浦は賞金シード権争いの真っただ中。試合に入れば、シード獲得のために集中できた。ブルックス・ケプカやウィンダム・クラークを見る余裕はなかった。松山英樹には挨拶しただけだと笑う。 「自分のプレーに必死ですよ。ただ、最終日の上がり3ホールがボギー、ボギー、パーでシード当確できなかった。その日は思い出に浸る余裕なんかなくて、すごく落ち込みました。父は『でも出られただけでいいよ』というテンションでしたけど、僕はそうじゃない。シード獲得とサードQT行きの差はとんでもなくある。翌週のカシオに強い思いで臨みました」 初シードを獲得するまで、小浦はとにかく多くの壁を乗り越えてきたのだ。 小浦がゴルフを始めたのは9歳頃。ゴルフ好きの父、浩二さんは単身赴任中で、土日に自宅に戻ってもコースや練習場に行く。一緒に行けば父と遊べると思ったのがきっかけだ。 「最初は楽しくやっていましたが、いつの間にか父が僕に対して競技志向になり、スパルタ教育になっていったんです」 飛行機が大好きだった小浦の夢はパイロットだった。 「勉強もしたかったので受験して私立中学の日向学院に入学しましたが周りのジュニアは皆プロを目指している。ちょうど視力が悪くなり、当時はパイロットにはなれなかった。勉強しながらゴルフもやってみようと思ったんです」 そしてゴルフ部のある日章学園高校へ。途中から特別進学コースに移り文武両道は貫きつつ、キャプテンも務めた。 「僕が3年のときは全国で4位くらい。皆が仲良くて楽しかったです」 一昨年の緑の甲子園で男女ペア優勝するまでになった母校について、目を細めながら 「史上初ですよ。これを機に僕が発起人となってOB会を立ち上げました。皆意外と協力的で。今こういうのは流行らないと言われるけど、誰かがやらないとつながりは消えちゃう。ゴルフ部もせっかくのご縁ですから、大事にしたいんです」 と語る。小浦は冗談を交えながらも秩序立てて話をする。頭の回転が速いのだ。そして“ご縁”という言葉がよく出てくる。 高校時代、同期に香妻琴乃、2つ下に香妻陣一朗というトップジュニアがいて刺激も受けた。 「負けず嫌いだった。僕もプロになってみようと。でも保険をかけて専修大学に進学しました」 ずっと保険をかけていたと笑うが、確実に自分の人生を選択していくのが小浦らしい。大学時代はとにかく練習した。 「電話で父に脅されたり(笑)。東日本大震災のとき計画停電で練習場が開いてなかった時期に練習ができないと嘆いていたら、父に『できないことばかり言うな。今ある環境でできることを探せ』と言われ、それがすごく頭に残っています。大きな声では言えませんが夜に公園の砂場でバンカー練習をした。アプローチもできるし砂だから傷つかない。広い場所なのでトップしても大丈夫ですから」 寮の屋上にマットを敷いての練習も始めた。練習量に比例して結果も出てくると、それがまたやりがいとなる。しかし当時の、特に東北福祉大のメンツはすごかった。 「松山(英樹)さんは1つ上で、挨拶するのも怖い感じ(笑)。でも一緒に回る機会もあり楽しかった。すでに有名人だし雰囲気もあってすべてのレベルが違うけど『松山さん、お願いします!』と」 小浦は、誰に対してもハキハキと笑顔で挨拶をする。相手を気持ちよくさせるのも才能だ。大学時代はアイアンショットやショートゲームが上達した。 「ドローをフェードに変えてすごく安定した。自信もついて、いいメンタルの状態でした。大学入学時の目標は日本オープンのローアマ獲得で、3年生のときに達成しこれならプロになれると思いました」 しかしこのときすでに、病気は発症していたのだ。