22億円横領しながら“JAの神様”と呼ばれた男の正体とその死の真相「単純に悪いやつだけでは片付けられないからおもしろい」
戦後の日本がつくってきた構造の結果
──窪田さんは大学を卒業してからJAグループの機関紙「日本農業新聞」の記者をされていたそうですね。就職されるときに農業に関心があったのですか。 まず新聞記者になりたいというのが1つ。それと、大学時代に民俗学を専攻していたことが大きいですね。民俗学は常民の歴史や文化を研究する学問です。 常民とは生活文化を伝承する人たちのことで、かつては主に農民を指しました。そこで、今の農民はなにをしているんだろう、という興味から日本農業新聞に入ったんです。 ──農業ジャーナリストとして取材していると、農業が抱える問題にぶつかると思いますが、『対馬の海に沈む』は窪田さんにとってどんな位置付けになるんでしょうか。 実は以前は農業ジャーナリストと名乗っていたんですが、この作品を書いたことをきっかけに、肩書きをノンフィクション作家に改めました。 というのは、もともと自分はジャーナリストだとあまり思っていなくて、取材をするために便宜的にそう名乗っていたんです。 この作品を書いたことによって、もう少し幅広く、農業以外のことも書きたいと思っています。それも人間に焦点を当てて書きたい。ノンフィクション作家と自分で言ってしまうことで、やらざるを得ないように自分を追い込もうと。 ──たしかに『対馬の海に沈む』はJAの話ではありますが、日本のムラ社会についての話でもあって、多くの読者が思い当たることがあると思います。本書では取材した方たちのほとんどが実名で登場しますね。実名で書かれた理由はありますか。 元共同通信記者の澤康臣さんの『事実はどこにあるのか』(幻冬舎新書)に、実名報道は歴史に記録を残すことだと書いてあったんです。その考え方に触発されて、実名で書くように心がけています。 ──窪田さんは誰かを悪者にするのではなく、事実としてこうである、発言の背景にはこういう文化、事情があると書かれています。普通の人の中にある光と影の両面を見ている。そこが『対馬の海に沈む』の「人間」のおもしろさだと思います。 民俗学者の柳田國男が、人生で「絶対」という言葉は2回か3回しか使ってはいけない、と言ってるんですよね。 つまり、「絶対」的な悪人はいない。この人がなぜこんなことをしてしまったのかに思いを致さなかったら、ノンフィクションの書き手として失格なんじゃないかと自分を戒めながら書いています。 ──ノンフィクション作家として新たな出発をしたわけですが、次作の構想はありますか。 『対馬の海に沈む』で書いた事件は、戦後の日本がつくってきた構造の結果でもあると思います。その仕組み、システム的なことはJAだけではなく、ほかでも温存されていると思います。たとえば『対馬の海に沈む』で書かなかったのは政治です。 そのほかにも書いてみたい題材はいくつかあります。次は農業以外の題材で、人間を中心に書いてみたいですね。 取材・文/タカザワケンジ 写真/幸田 森
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