常磐炭田、父から継承したヤマの記憶 自宅敷地内に手作り「みろく沢炭鉱資料館」
日本の近代化を支えた常磐炭田の歴史を伝える、手作りの資料館が福島県いわき市にある。炭鉱マンだった故渡辺為雄(わたなべ・ためお)さんが、35年前に自宅敷地内に開館した「みろく沢炭鉱資料館」。2020年に94歳で死去してからは三男秀峰(ひでみね)さん(69)が遺志を継ぎ、ヤマの記憶を未来につなぐ。(共同通信=湯山由佳) 坑道のような木組みの入り口をくぐると、古びたつるはしやヘルメット、カンテラ、弁当箱が並ぶ。為雄さんや仲間が使っていたものだ。地域の祭りや運動会の写真も飾られている。 資料館がある「弥勒沢(みろくざわ)」地区は江戸時代末期に石炭層が発見され、常磐炭田のルーツと言われる。福島県富岡町から茨城県日立市まで広がり、首都圏のエネルギー供給源となった。 地元出身の為雄さんは太平洋戦争中、飛行兵を志願し、特攻隊員として1945年の終戦を迎えた。戦後は家族を養うため、ヤマへ。採掘の主な作業を担う「先山(さきやま)」として、落盤事故やガス爆発と隣り合わせの過酷な労働に従事した。
60年代、石炭から石油へ、エネルギーは転換。為雄さんが勤めたヤマを含め、閉山が相次いだ。いわき市史によると、戦後間もなく4万人近かった常磐地域の炭鉱労働者は、1968年には約8千人に減った。 街の変容が秀峰さんの記憶に残る。石炭を運ぶ貨物列車の線路は車道に変わり、同級生は次々と引っ越した。養鶏業を起こした一家は地元にとどまったが、1985年には全ての炭鉱が閉山した。 1989年、養鶏場を改築して資料館を開いた。ヤマで亡くなった仲間もいる。「炭鉱がなかったものとされないよう、自分たちのルーツを残そう」との思いを込めた。 秀峰さんが、父の思いの深さを感じた瞬間がある。2011年、東京電力福島第1原発事故が発生。避難させようと迎えに行くと「資料館を守る。最後まで見届けたい」と言い、父は残った。 高校卒業後にいわきを離れ、関東で生計を立てた秀峰さん。父が死去し、自身の定年後の2022年春に後を継いだ。現在、自宅は千葉県白井市にあるが、月の大半をいわきで過ごす。
資料館が当事者の語りの場になっていると気付いた。最近も元炭鉱マンが当時の暮らしを教えてくれた。今も、当時使われた物の持ち込みがあり、収蔵品は増え続ける。 無名の人々の努力が結実した戦後の発展。秀峰さんは「おやじの残してくれた歴史、労働者たちの思いを守っていきたい」と語る。