杉江松恋の新鋭作家ハンティング 好きにならずにいられない小説ーー三木三奈『アイスネルワイゼン』評
第170回芥川賞候補作では、三木三奈「アイスネルワイゼン」(単行本『アイスネルワイゼン』収録)がいちばん好きだった。 他のサイトの話題で恐縮だが、マライ・メントラインさんと毎回、芥川・直木賞の全候補作を読んで受賞作を予想するという企画をずっとやっている。第170回で、二人が共通してお気に入りとして挙げたのが「アイスネルワイゼン」だったのである。これ、好きにならずにいられない小説だ。 視点人物は琴音という32歳の女性である。彼女はピアノで生計を立てていて、こども相手の個人指導や、頼まれての伴奏仕事などを請け負っている。収支がかなり危ういだろうな、ということは、琴音が母親と電話で行う会話などから推察できる。32歳のおとなとしては頼りないことに、家賃を母親に払ってもらわなければならない状況なのである。 その苦労が描かれていく。物語が山場を迎えるのはある年のクリスマスだ。前日に受けた仕事がさんざんな結果に終わったあと、琴音は5年ぶりに再開する旧友の家を訪れる。友人は結婚して、生まれた子供が7歳になっている。以下、そのクリスマスの宴の模様が描かれる。 読者の前に姿を現したとき、琴音は同情すべき人物のように見える。ピアノ演奏という不安定な仕事で身を立てて行くのはたいへんだ。理不尽な仕打ちにも耐えなければいけないし、ままならない現状の中で声を挙げて怒りたいときだってきっとあるだろう。そうやって琴音側に立って読んでいくのだが、だんだん違和感を覚えるようになる。何か不穏なものが行間に漂っているのである。その歪みのようなものが、クリスマスの夜にはっきりとした姿を現す。ああ、そういう小説だったのか、と納得したときにはもうすでに遅く、結末までの旅に付き合わなければならなくなっている。琴音と共に、首をうなだれて。 叙述の技巧が大きな鍵を握っている作品なので、あまり詳しくは書けない。読めば琴音の人生に引き込まれることは間違いない、とだけ言っておきたい。引き込まれた上でそれをどう判断するかは、読者に委ねられるという書き方なのである。本作は「文學界」2023年10月号に掲載されたが、大衆小説誌である「オール讀物」に発表されていたら、また別の形で反応があったのではないだろうか。まだまだ可能性がありそうで、楽しみな書き手である。 と、ここまで書いて明かすのだが、今回本書を取り上げた理由は「アイスネルワイゼン」だけではない。もちろんこの作品も素晴らしいのだが、同時収録された「アキちゃん」が入っているのである。おお、「アキちゃん」だ。そうか、まだ単行本になってなかったのか。第125回文學界新人賞を受賞した作者のデビュー作で、第163回、2020年上半期の芥川賞候補作になった。 以前は、芥川賞候補作が単行本として刊行されないことも珍しくなかった。文芸誌に掲載されることが候補となる条件なので、単行本未刊行のまま選考会を迎えていたのである。最近はそこが改められて、各出版社が早めに対応するようになっていて、一般読者が手に取りやすいという意味ではいいことだと思う。 それでも本になっていない作品もある。理由はさまざまだが、短すぎるというのもその一つだろう。「直木賞のすべて」で知られる川口則弘の労作サイト「芥川賞のすべての・ようなもの」によれば、「アキちゃん」は原稿用紙換算にして105枚相当。なるほどこれは単行本にはしづらかったはずだ。三木が2度目の芥川賞候補となった今回、併せて刊行されることになったわけである。 そうか、「アキちゃん」か。思い出した瞬間に小説中のある箇所が鮮明に蘇ってきた。主人公の〈わたし〉が小学生時代の同級生について語るという形式の小説である。それもいい思い出ではない。「わたしはアキちゃんが嫌いだった。大嫌いだった」という文章で小説は始まる。〈わたし〉にはミッカーというあだ名があり、他の誰もがそう呼ぶのにアキちゃんは「アンタ」なのである。いつも〈わたし〉のそばにアキちゃんはべったりいるので周囲からは親友と見なされているが、内心ではひどく憎んでいる。そのアキちゃんとの間に生まれた一つの因縁が話の軸となる。転校生のタナちゃんからもらった可愛い財布をめぐる挿話で、なぜか〈わたし〉はそれをアキちゃんに進呈する羽目になるのである。 個人空間の侵略ともいえる行為を受け続けている〈わたし〉は、必然的にアキちゃんの熱心な観察者にもなっている。小説のもっとも輝かしい瞬間は、〈わたし〉が雑貨屋でアキちゃんの姿を認め、物陰に隠れてその動向を観察するという場面で訪れる。 アキちゃんの「手」に関する文章だ。ここだけ抜き出しても真価は絶対にわからないのだが、一応引用する。 ――アキちゃんはゆっくりと棚の前をすべるように歩いていた。そのすぐ後ろではアキちゃんの手が尾ひれのようにアキちゃんのあとをついていった。陳列された商品をひらひらとなでていくアキちゃんの手、そこに置かれたものを無感動になでていくその手を、わたしはよく知っていた。それはアキちゃんが花や、わたしのものを扱うとき、手持ちぶさたにじぶんの髪や服にふれるときなどにあらわれる手だった。それはただ何かにふれていたいというだけの手だった。(後略) 〈わたし〉のアキちゃんに関する言及は辛辣なのだが、ここだけはカメラアイに徹したかのように判断を控えている。スローモーションの技法が使われ、手の動きだけが忠実に描かれる。ぜひ小説全体を味わっていただきたいのだが、最後まで読むとこの手に関する文章がアキちゃんを表現するための重要な部品であったことが判明するのである。身体の一部分を描いてここまでそのキャラクターの内実を示すことのできる文章は稀だ。 絶対に選考委員もこのくだりに触れていたはず、と思って「芥川賞のすべての・ようなもの」の引用を見返したが、抜き出されていなかった。記憶違いか、もしかすると言及があったのは文學界新人賞の選評だったかもしれない。ちなみに「の・ようなもの」に引用されている選評は「アキちゃん」の核になっている部分を割っているのでご注意いただきたい。各選考委員は「下手な手品を見せられたよう」(松浦寿輝)「(小説が主題にしていることを)もっと正面から描くべきではないか」(奥泉光)と結構辛辣で、そうかな、と個人的には首を傾げたくなる。その原因は「アイスネルワイゼン」と同様、わざわざ迂回路を使って目的地に到達するような書き方を作者がしているからで、遠回りをしているからこそ読者の心に響くという小説だってあるのではないか、と私は思うのである。その意味では吉田修一の「叙述トリックという手法が、読者の先入観や偏見や思い込みを逆手に取るものだとすれば、これほどテーマと手法が合っているものはない。このようなテーマと手法とを意識的に組み合わせる作品をあと数作書けば、かなりユニークな作家になるのではないでしょうか」という選評に全面的に賛成する。そうか、「アイスネルワイゼン」は吉田から出された課題に取り組んだ作品だったのだ、と改めて気が付いた。 ぜひ「アキちゃん」「アイスネルワイゼン」の順で読んでみてもらいたいのである。この作家の並々ならぬ力量が感じ取れるはずだ。小説は、何を書くか、だけではなくて、どう書くか、も評価軸となる文章芸術のはずだ。私は三木三奈が用いる語り芸のファンなのである。この書き手が生来備えているユーモアは、ほのかな可笑しさを常に読者に与えつつ物語の結末まで誘う。そこでに小説が本来書こうとしていた人間の真実、どうにもならない現実のありようや、不用意に口にすることが憚れる本音が姿を現すため、読者は驚きと共にページを閉じることになるのだ。この技法、どうかゆっくりと育てていってもらいたい。
杉江松恋