東大生が「キャリア官僚」を見放した当然の理由…霞が関の「エクセル方眼紙」が笑い事じゃないワケ
東大生の「キャリア官僚離れ」が加速している。過酷な労働環境などが伝えられる中、高学歴エリートにとって魅力の少ない選択肢となってしまったのかもしれない。この問題を解決するにはどうすればいいのか。経営学の視点で考えてみた。(やさしいビジネススクール学長 中川功一) 【この記事の図を見る】 ● エリートの「キャリア官僚離れ」が加速 東大出身者は過去最少 先日、人事院から2024年春の国家公務員採用(総合職)の結果が公表された。 出身大学別の人数では、東大生が最も多く189人。だが、これは過去最少で、全体の10%を割り込んだ。 そもそも、国会公務員総合職の試験を受けてキャリア官僚を目指す人自体が減っている。24年春は、国家公務員総合職試験の申込者数が過去最少だった。高学歴の人々にとって、キャリア官僚が魅力の少ない選択肢になりつつある。 どうして、このようなことになったのか。ここからどうやって改革していけばよいのか。経営学者として分析、解説をしてみたい。
● 働き方改革が進む中 「変わらなかった」官僚の働き方 キャリア官僚が選ばれなくなった理由――。それについては、わざわざ語るまでもないほどに自明かもしれない。 過酷な労働環境、低賃金、働き甲斐のなさ。どんな側面をとっても、わが国のエリート人材にとって魅力的な部分がない。 だがそれは、キャリア官僚という仕事がそのように「変わってしまった」からなのではなく、むしろ民間企業がよい職場づくりに励んで変わり続けていく中で、国家公務員の働き方だけが「変わらなかった」ことの帰結である。 2000年代ならば、霞が関で夜中の2時3時まで働いて、タクシー券を使って家に帰るといった生活は、「それだけ社会から必要とされている重責な仕事」を任されている証だと感じていた人も多いように思う。終電で帰れる人を「おまえの仕事は楽でいいね」とばかりに、皮肉るような文化さえ、高学歴社会の中にはあった。 官僚に、広告代理店に、グローバルメーカーに、外資コンサルに就職し、それぞれの仕事の厳しさを競い合っていたのだ。 だが、00年代も半ばころから、空気は変わり始める。 長時間働くというのは非効率であるとの考え方が広がり、優秀さとは限られた時間にスマートに仕事をこなすことだと考えられるようになった。 賃金水準もこの頃から民間と公務員で差がつきはじめ、それはエリート層で顕著になっていった。 仕事もプライベートも輝いているというのがあるべき姿とされ、国会対策で政治家のために夜まで張りついているなどという姿は、決して格好良くは見られなくなってきた。 このまま、キャリア官僚の働き方が変わらなければ、国家の中枢から優秀な人材がいなくなるかもしれない。 国家公務員が機能しないということは、税金の払い損になりかねないということだ。私たちの社会インフラが正しく編成されなくなるリスクをはらんでいるわけで、これは誰にとっても他人事ではない。