闇市では危険な密造酒が横行...戦後の酒不足を、日本人はどう乗り切ったのか?
米を原材料とする日本酒。戦時下で米が配給制となったことを受け、酒造りの現場は非常に厳しい状況に陥りました。それでも日本酒に対する需要は高まり続け、健康に害をなす密造酒が横行する事態に...。戦中、そして敗戦後のお酒好きの日本人は、どのように酒不足を乗り越えたのでしょうか? 酒蔵コーディネーターの髙橋理人さんによる書籍『酒ビジネス』より解説します。 【写真】昭和の食卓の再現 ※本稿は、髙橋理人著『酒ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)を一部抜粋・編集したものです。
米騒動から生まれた日本酒錬金術
大正時代に入ると、第一次世界大戦の勝利による好景気に沸きます。日本人は裕福になり、一般の市民も白米を食べるようになりました。また、若者の東京進出に伴い、地方の労働力は衰退していきます。 こうした状況により、米の価格は3倍以上に跳ね上がります。現代で言えば、5kgで2000~3000円のお米が1万円近くになるようなイメージです。特に、当時は米中心の生活なので、それに反発する形で各地から暴動が多発する「米騒動」が発生します。米の入手が困難になったことで、お酒づくり用の米も不足してしまいました。 そんな時世の中で、日本人は少ない米で酒づくりができるよう研究を開始しました。これはアルコールに糖類、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にした「合成清酒」と呼ばれるお酒で、言い換えるなら「日本酒風アルコール飲料」です。ある意味、日本酒の錬金術のようなもので、日本人のお酒好きは健在で、たくましさすら感じます。
昭和前半の技術開発ラッシュ
昭和の前半は技術開発が大きく進んだ時代でした。例えば米を削る割合は、従来では1割程度でしたが、1930年頃に完成した縦型精米機(サタケ製)によって、3割程度まで削れるようになりました。精米歩合で表現すると、90%から70%まで削れるようになったことを意味しています。 「精米歩合」とは、原料の米(雑味の元となるたんぱく質を多く含む外側部分)をどれくらい削ったかを表す割合です。たとえば精米歩合が50%以下(半分以下)に削った米でつくった純米大吟醸は、最高ランクのお酒に分類されます。 精米による日本酒の味わいの変化は絶大で、雑味のある味わいからすっきりとした味わいになり、日本酒の酒質が大きく変化しました。また、1935年には酒米の品種改良が進み、酒米の王様として80年以上君臨し続ける「山田錦」が誕生しました。第二次世界大戦が始まる直前まで、日本酒は次々に大きな進歩を遂げた明るい時代だったのです。