NHK大河では「平安ギャル」と描かれた…史実に残る藤原道長の次女・姸子がたどった意外な生涯
藤原道長の次女・姸子とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「華美を好むあまりにたびたび身内の眉をひそめさせた特異な女性皇族だった。三条天皇との間に生まれた禎子内親王を残し、34歳でその生涯を閉じた」という――。 【写真】娍子も姸子も女御にした三条天皇 ■NHK大河で描かれた道長の娘の破天荒な言動 藤原道長(柄本佑)が三条天皇(木村達成)のもとに入内させた次女、姸子(倉沢杏菜)が奔放どころか破天荒で、独特の存在感を放っている。 NHK大河ドラマ「光る君へ」の第40回「君を置きて」(10月20日放送)では、父に言動をたしなめられると、「父上の御ためにがまんして年寄(註・三条天皇)の后になったのです。これ以上、がまんはできませぬ。ああ、どうせなら(註・三条天皇の第一皇子の)敦明様がようございました」と言い放ち、道長を絶句させた。 第41回「揺らぎ」(10月27日放送)でも、これに続く奔放な言動が描写された。一条天皇(塩野瑛久)が崩御して未亡人になった彰子(見上愛)は居所を枇杷殿に移し、これまで彰子がいた藤壺に姸子が移ってきた。そこに敦明親王(阿佐辰美)が訪ねてきた。 敦明は御簾の内側にいる姸子に向かって、狩りの話をはじめた。「うさぎは小さいながら右へ左へと逃げ足が速く、これを追って駆り立てるのは、また格別のおもしろさがございます」。 姸子に「狩りがお好きなのね。もっと狩りの話を聞かせて」とせがまれた敦明が、身振り手振りを交えて狩りの極意について語っていると、いつの間にか御簾から出てきた姸子は親王に、「好き」と言ってアプローチしたのである。「おやめくださいませ」と抵抗しながらも、まんざらでもなさそうな敦明に、姸子は「だって、敦明様も延子さまより私のほうがお好きだもの」とたたみかけた。
■三条天皇が寵愛したのは姸子でなかった このとき止めに入ったのは、三条天皇の女御で敦明の実母である娍子(朝倉あき)だった。この娍子については、同じ第41回の少し前の場面で、三条天皇が言及していた。 三条天皇は道長に「朕の願いをひとつ聞け」と命じて、こう続けた。「娍子を女御とする。姸子も女御とする」。対して道長は、「娍子様は亡き大納言の娘にすぎず、無位で後ろ盾もないゆえ、女御となさることはできませぬ。先例もございませぬ」と反論した。ところが三条天皇は聞き入れず、「娍子も姸子も女御だ」と道長に伝えて、立ち去った。 たしかに、姸子にも同情すべき点がある。三条天皇のこのセリフは、道長の娘の姸子だけを優先するつもりはないという宣言だが、史実においても、三条天皇はそのように行動した。というのも、娍子を寵愛していたからである。 娍子は藤原氏の本流ではない済時(なりとき)の娘。したがって政治的には重要とはいえない妻だったが、三条天皇はそんなことには構わず、敦明親王以下、6人の子を産ませた。そこに道長が打ったくさびが、天皇より18歳年下の姸子で、彼女は長和元年(1012)2月14日、中宮となった。 これに対し、三条天皇は妍子の立后を受け入れながら、寵愛する娍子も皇后として立后させるように求め、2カ月後に実現させている。ドラマでの「娍子も姸子も女御だ」という言葉は、その史実を表している。 ■連日のどんちゃん騒ぎ これは「一帝二后冊立」といって、かつて一条天皇の中宮として定子がいたところに、道長が彰子を割り込ませたのと同じ手法だ。三条天皇はそれを逆手にとって、道長に対抗したわけで、姸子の立場は、一条天皇に入内したばかりのころの彰子の立場に似ている。すなわち、天皇はもとからいた女御を寵愛し、あらたに入内した若い女御は相手にしない――。 その点では、姸子は気の毒なのだが、では、史実の姸子も破天荒だったのか。どんな人生をたどったのか、確認していきたい。 中宮になった姸子は、三条天皇から無視されたわけではなかったようだ。間もなく懐妊している。ところが、懐妊したことで移った東三条殿が火事になり、猛火のなか藤原斉信(ただのぶ)の屋敷に移った。同情に値する話だが、姸子らしいのはその後である。 まず藤原広業(ひろなり)が飲食物を献上し、大勢の上達部が参加して、火事見舞いの饗宴が開かれた。続いては、藤原正光が飲食物を持参して饗宴が開かれ、姸子の御前で蹴鞠も行われた。藤原道綱も同様に食料を持参し、終日管弦の催しを行っている。要は、懐妊中に焼け出されて気の毒なはずの姸子は、連日どんちゃん騒ぎをしていたのである。 実際、『栄花物語』にも、姸子は派手好きだと書かれている。