息子が見た父・門馬監督の退任 「背中」を追って指導者の道へ
甲子園を春夏4回制した、高校野球界を代表する名将、東海大相模(神奈川)の門馬敬治監督(51)が今夏限りでユニホームを脱ぐことになった。今春のセンバツに、次男の功(3年)と「親子鷹(だか)」で臨み、全国制覇を果たしたが、長男で東海大野球部主将の大(ひろ)さん(21)とも、東海大相模時代を監督と選手として過ごした。大さんに門馬敬治という人物を語ってもらった。 大さんが父の退任を知ったのは6月のこと。春季リーグ戦終了後、進路の相談のために、普段過ごしている寮から自宅に戻った時だ。リビングで妹と一緒にいると、父が落ち着いた表情で話しかけてきた。「今年の夏で監督を辞めることにしたから」。理由の一つが体調面の不安。「いつも首が痛い、痛いと言っていた」と大さん。長年の労苦も知っているだけに、驚いたものの、「わかった」と納得したという。 門馬監督と言えば、厳しいイメージがつきまとうが、父としての顔は全く違う。「とても気さくな優しい人。怒られた記憶がない」。野球の指導が多忙なため、一緒に過ごす時間は少なかったが、たった1日しかない夏休みにプールに連れて行ってもらったのは良い思い出だ。 父の愛を最も感じたのは中学1年の時。自打球が左目に当たって大けがをした。父は学校を休み、病院に付き添ってくれた。難しい症状で、手術してくれる病院が見つからなかったが、手を尽くして探してくれた。 けがの影響で視力が大幅に低下したが、高校は子供の頃から慣れ親しんだ東海大相模を選んだ。野球部への入部は認めてくれたものの、優しい父は一変した。父は「同じ力なら他の選手を使う」と宣言。寮生活となり、自分たちが最上級生となる2年秋までは、会話すらほとんどなくなった。 父が監督という仕事に懸命に取り組んできたことは、選手という立場だからこそ実感できた。3年春の神奈川大会準決勝。無死一、二塁から、味方のファインプレーで三重殺を奪った。ところが、野手が落球したと判定が覆り、得点された上でプレーが再開した。この時、門馬監督は選手を集め、「俺はこの試合にかけているんだ」とハッパをかけた。春の大会は甲子園につながるわけではない。それでも1勝にこだわる執念に、大さんは選手として息子として感銘を受けたという。チームは見事に勝利をつかんだ。 親子に戻ったのは、3年夏の神奈川大会決勝で敗れた日だ。先に自宅に戻っていた大さんは父を出迎える形になった。「お疲れ様」と優しい表情で話しかけてきた父と握手し、自然と涙があふれた。 昨年、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、東海大相模も東海大も全体練習ができない時期があった。大さんは父と弟と3人で、自宅のそばでトレーニングすることができた。「今までにない家族の時間が過ごせた」 父は常に「自分のやりたいようにやれば良い」と背中を押し続けてくれた。左目の視力が悪いハンディを抱えながら東海大進学を決めたときも、黙って受け入れてくれた。 大さんは高校野球の指導者を志している。そこには間違いなく父の影響がある。父は東海大で、巨人・原辰徳監督の父で名将の原貢さん(故人)の薫陶を受け、若くして東海大相模の監督に就任し、低迷していた名門を立て直した。自分も部のコーチとなり、支えることが夢の一つだった。 残念ながら、それをかなえるのは難しくなった。一抹のさみしさはあるが、今は父を応援する思いが強い。「最後の夏、精いっぱい頑張ってほしい」。ねぎらいの言葉をかけるのは、父の戦いが終わった後と決めている。【岸本悠】