死は怖くないですか? 意識をコンピュータにアップロードできれば、そこにはデジタル不老不死の世界が!
意識のアップロードを望むか
私がこの問いをあちこちで訊いてまわった感覚からすると、アップロードを望むのはごく一部の人たちに限られる。10人に1人もいればよい方だろうか。 当然のことながら、意識の解明と、その副産物としての意識のアップロードを目指すわたしはそれを望んでいる。大方のみなさんは、なんで? と疑問に思うかもしれない。でも、そんなみなさんに問い返したい。 死は怖くないですか? 今、この記事を読み、思考をめぐらしているあなたが、金輪際いなくなってしまうことに根源的な恐怖をおぼえませんか? 思春期の頃まで感じていた怖れを理性で抑え込んでいるだけではありませんか? 死は万人に訪れ、どうにも抗えないもの。遠い未来の話で、今から悩んでも仕方のないものだと。 逆に、アップロードを望むごく一握りの人々は、理性による抑え込みに失敗した人たちなのかもしれない。
死は怖くないか
わたしとは流派がことなるが、生身の体で不老長寿を目指すハーバード大学のデビッド・シンクレア教授は、著書『ライフスパン──老いなき世界』のなかで、まさにこの観点から死を説いている。医師として数え切れないほどの死に立ち会ってきた彼は言う。死は決して生易しいものではない。若く、健康体で、死がまだ地平線のはるか彼方にある時分の感覚はまったく当てにならない。死が目前に迫ると、多くの患者が死に恐怖する。それまで封じ込んできたものが一気に噴き出す、と。 さきほど、アップロードを望まないと答えたあなたも、将来、宗旨替えしないと言い切れるだろうか。死の床にあったチャールズ・ダーウィンが、キリスト教に改宗し、進化論を説いたことを懺悔したように(※諸説あり)。 ましてや、ここで前提としているのは、意識のアップロードが当たり前のものになったそう遠くないはずの未来だ。お隣の山田さんも、斜向( はす むか ) いの鈴木さんも、デジタルなあの世で第二の人生を満喫している。週末には対面センターで、のこる家族と想い出話に花を咲かせたりもする。そんななか、あなただけがゲーム・オーバーを選択することなどできるだろうか。 なにも、永遠に生きろと言っているわけではない。ゲーム・コンティニューくらいにライトに考えてもよい。一旦は望まない死を回避する。もし、辛い境遇にあったなら、それらすべてが払拭されたデジタルなあの世が待っている。 正直なところ、何万年と生き続けるのはわたしも想像できない。ただ、人類の遠い未来、またその先には、人類が新たな種にとって代わられた地球の姿は見てみたい。コンピュータへの意識のアップロードゆえ、計算を休止するだけでスリープモードに入ることができる。それを贅沢に使い、宇宙の終焉にも立ち会ってみたい。生身のコールドスリープであれば、体温を下げ、代謝を落としつつ、最低限の栄養を補給しつづけるような大掛かりな装置が必要なところだ。だが、そんなものが長く動作しつづける保証はどこにもない。
渡辺 正峰(東京大学大学院工学系研究科准教授)