【甲子園100年物語(5)】鳴尾から甲子園へ 収容人数だけじゃない、新球場建設の背景
8月1日に甲子園球場は開場100年を迎える。「甲子園100年物語」と題した連載で、“聖地”の歴史や名物の秘話などを紹介する。 野球人気は過熱し、鳴尾球場で開催された1923年の第9回大会で観客がグラウンドになだれ込む「事件」が起きた。これが甲子園建設の引き金になったとされる。主催の大阪朝日新聞社などが、もっと観客を収容できる球場を必要とした、というものだ。 ただ、それは野球史観的な一面で、阪神電鉄には新球場を急ぐ理由がほかにもあった。 最大の理由は、競馬の復活だ。同年に馬券販売が再び認められ、秋に競馬が再開された。阪神電鉄が球場など運動場の用地を借り受ける条件の一つが、競馬の運営を妨げないこと。つまり、競馬開催日には野球を開催できなくなった。 第二に、20年に阪急神戸線が開通していた。大阪・神戸間を並走するライバル路線が誕生し、阪神としてはいっそうの起爆剤が必要だった。だからこそ、甲子園建設という冒険的事業も、株主を説得することができたのだろう。 三つ目の理由は、用地を入手していたことだ。兵庫県が、枝川を廃川にし、その地が売りに出された。阪神電鉄は22年6月、その土地を購入していた。 鳴尾球場の使用問題、阪急電鉄という“外圧”、そして土地の入手という条件が重なったことが、甲子園を誕生させた。 鳴尾での大会開催は17~23年の7年間。だが、大会開催は6度。18年の第4回は米騒動で中止だった。米の価格暴騰に苦しむ市民が全国各地で騒乱を起こした。その世情不安だけでなく、大会中止の決め手は、鳴尾という場所にあった。米を買い占めていると一部で報じられた神戸の鈴木商店が、大会開幕前に焼き打ちに遭った。その鈴木商店のしょうゆ工場などが球場の近くにあり、周辺の治安が悪化。出場14校はすでに関西入りし、初戦の抽選も行われたが、大会は中止となった。2020年の春夏甲子園大会が新型コロナウイルスで中止になったが、太平洋戦争中を除けば、その第4回以来の大会中止だった。 鳴尾球場があった場所は、現在の阪神タイガースの2軍本拠地・鳴尾浜球場とはまったく別。跡地は浜甲子園団地となっており、その近くの浜甲子園運動公園の一角に記念碑が建てられている。 ※取材協力=丸山健夫・武庫川女子大名誉教授
報知新聞社