フェイクニュースは価値基準を失った人々の不安のなかから生まれる
もはやインターネットが特別な存在でなくなった現在、インターネットのニュースは、いつでもどこでもアクセスできる存在になった。私たちはその便利さを享受する一方で、そのニュースを誰がどのように作り、誰がどのように流しているのか、意識することは少ない。ネットメディア業界の主要なプレーヤーに取材し、その裏側を著書『ネットメディア覇権戦争 ── 偽ニュースはなぜ生まれたか』 (光文社新書)にまとめた法政大学准教授の藤代裕之さんに話を聞いた。
評価が定まらないものから私たちはニュースを摂取している
学生に「身近に使っているメディアは何ですか?」と聞くと「新聞、テレビ、雑誌です」と答えるんです。そこで「ヤフー・ニュースやLINE、フェイスブック、ツイッターもメディアだよね」と言うと、きょとんとするんですよ。でも、彼らが接しているニュースはそれらのメディアから入ってきます。 つまり、彼らはインターネットをニュースメディアとしてとらえていないのです。本書を出版してから大人からも「インターネットはコミュニケーションツールであって、メディアとは違うんだ」という強い違和感みたいな感想が寄せられています。インターネットニュースの形はさまざまで、それぞれに対する評価が定まっていません。「ニュースってなんだろう」が分からなくなってきています。 そうであるにもかかわらず、評価が定まらないものから私たちはニュースを摂取しているわけです。これはまずい状態ではないでしょうか?
責任を引き受けないネットメディア
そもそもインターネットニュースは、(新聞やテレビ雑誌のような)レガシーメディアに対する新たな選択肢、つまり「オルタナティブ」として期待されてきました。そのおかげで、ネットニュースは、マスメディアを相対的な存在にし、マスメディア自身の報道がチェックを受けるようになったのは民主的にはいいことでした。 しかし、ネットメディアに出てくるマスコミは悪役として登場していて、「マスゴミ」という言葉にみられるよう、批判の対象になってきていた側面があります。インターネットでしかニュースを読んでこなかった若い世代には、マスコミ=批判の対象というイメージが定着しかねません。彼らは「新聞には社会を背負っていく矜持がないと思っていた」と話します。 「世の中の基準点」を提供してきた新聞やテレビが昔ほどの影響力を持たなくなってきたいま、ネットニュースは、レガシーメディアに代わって、それが作れなくなっています。求心すべき中心部を持たないネットニュースが社会のインフラになったとき、世の中の人々は不安になります。そこにフェイクニュースがつけ込んでくるのです。 こういう状況は、私たちが望んだことだったのでしょうか? インターネットメディアは責任を引き受けず、混乱をもたらすだけになっています。